連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第6話 ~決壊する地下と黒い津波~

ギギギ……ガガガ……

異音の正体は、目の前の鋼鉄の塊だった。

倉庫の奥に鎮座する特別保管庫。

俺が昨日、何重にもガムテープで目張りしたその扉が、まるで生き物のように呼吸し、軋んでいる。

内側からの圧力が、限界を超えようとしているのだ。

「……嘘だろ。鉄扉だぞ……?」

俺はデスクにしがみつきながら、その光景を呆然と見つめた。

分厚い鉄のプレートが、飴細工のように外側へと湾曲していく。

新宿中のストレスを圧縮した「黒い霧」の質量は、もはや物理法則を無視し始めていた。

バツンッ!

貼り重ねたガムテープが弾け飛ぶ音がした。

それが、終わりの合図だった。

ボォォォォンッ!!

爆発音と共に、金庫の通気口や扉の隙間から、圧縮された黒い霧が一気に噴出した。

それは煙ではない。

意志を持った「汚泥の津波」だ。

黒い波は瞬く間にセンター内を満たし、デスクを飲み込み、蛍光灯を割り、そして天井の配管――空調ダクトへと吸い込まれていく。

「マズい……!」

俺は顔色を変えた。

このダクトは、駅構内の空調システムと繋がっている。

この猛毒が、地上へ撒き散らされる。

「待てッ! そっちに行くな!!」

俺は叫んだが、黒い霧は俺を嘲笑うように、換気扇の轟音と共に闇の奥へと消えていった。

***


ウー、ウー、ウー!

センターを出た瞬間、耳をつんざくような警報音が鳴り響いていた。

業務端末と、構内放送が同時に喚き散らしている。

『緊急連絡! 緊急連絡! 東口改札前にて、複数のお客様が体調不良を訴え卒倒!』

『お客様同士の喧嘩、トラブルが多発中! 警備員、および手の空いている係員は至急現場へ!』

俺はフラつく足に鞭を打ち、倉庫から持ち出した「大型モップ」を握りしめて走った。

清掃用具? 笑いたければ笑え。

俺にとって、感情なんてものは「汚れ」だ。

拭き取って、消毒して、ゴミ箱へ捨てるだけの汚物だ。

だから、これは武器になる。そう思い込まなければ、足がすくんで動けなかった。

「クソッ、俺が……俺が片付けねえと……」

俺は血の味のする唾を吐き捨て、階段を駆け上がった。

***


そこは、地獄だった。

新宿駅東口コンコース。

普段なら、無関心な人々が足早に行き交うだけの無機質な空間。

だが今は、天井一面をドス黒い雨雲のような霧が覆い、そこからボタボタと粘着質の「悪意」が降り注いでいた。

「おい、ぶつかっただろ! 謝れよ!」

「うるさい! 死ね! みんな死んじまえ!」

「あああぁぁぁ……怖い、怖いよぉ……」

サラリーマンが鞄を振り回して殴り合っている。

若い女がその場で泣き叫び、髪をかきむしっている。

うずくまって嘔吐する者、奇声を上げて走り出す者。

普段は理性という蓋で抑え込まれていたストレスが、黒い霧によって強制的にこじ開けられ、増幅されていた。

「……ひぃ、ひぃ……」

改札の柱の影に、先輩の田中が座り込んで震えていた。

「なんだこれ……みんな急に……空気が、重い……息ができない……」

普通の人間にも、この異常な「空気の重さ」は物理的な圧迫感となって襲いかかっているようだ。

田中の顔色は土気色で、今にも気絶しそうだった。

俺は田中の横を通り過ぎ、阿鼻叫喚の中心へと躍り出た。

俺の姿を認めた黒い霧が、待っていたとばかりに鎌首をもたげる。

オ前モ……混ザレ……

楽ニナレ……

「うるせええええええッ!!」

俺はモップを振り回した。

布の束が、霧のど真ん中を切り裂く。

「散れッ! 消えろ! ここはゴミ捨て場じゃねえんだよ!!」

俺は狂ったようにモップを振るった。

一瞬、霧が晴れる。

だが、すぐに周囲から新しい霧が湧き出し、再生する。

数が違いすぎる。質量が違いすぎる。

俺一人の「清掃」では、この都市の排泄物を処理しきれない。

ミシッ。

嫌な音がした。

俺の頭部を締め付けていた、ノイズキャンセリングヘッドホン。

黒い霧の圧力と、周囲の絶叫の振動に耐えきれず、プラスチックのフレームに亀裂が入ったのだ。

「あ……」

パキィィィン!!

ヘッドホンが砕け散り、床に落ちた。

その瞬間。

最後の防壁を失った俺の脳髄に、数千人分の「殺意」「絶望」「悲嘆」「嫉妬」が、フィルタリングなしで直接叩き込まれた。

「――が、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」

痛い、なんて言葉じゃ足りない。

脳味噌をミキサーにかけられ、熱した鉛を耳から注ぎ込まれるような激痛。

視界が真っ赤に染まる。

目から、鼻から、耳から、血が噴き出す。

***


俺は膝から崩れ落ちた。

モップが手から滑り落ち、カラカラと乾いた音を立てる。

もう、指一本動かせない。

視界の端で、黒い霧が巨大な「人の顔」のような形になり、ニヤリと笑った気がした。

(……終わった)

抵抗する気力すら、根こそぎ刈り取られた。

俺も、このゴミの一部になるのか。

佐藤のように、エリのように、レイジのように。

この巨大なノイズの渦に飲み込まれて、個を失うのか。

(静かにしてくれ……眠らせてくれ……)

薄れゆく意識の中で、俺は冷たい床の感触だけを感じていた。

周囲の喧騒が、遠く、水底の音のように遠ざかっていく。

そして、俺の世界は完全な闇に包まれた。

***


同時刻。

吉祥寺駅、遺失物取扱センター。

夕方のラッシュアワーを迎え、少し忙しくなってきた時間帯。

カウンターの中で事務作業をしていた男――相沢が、ふと手を止めた。

彼は顔を上げ、窓のない壁の向こう、遠く東の方角をじっと見つめた。

彼の並外れて鋭敏な感覚器官が、遠く離れた場所で起きた「決壊」の振動を捉えていた。

空気が震えている。

風に乗って、微かに鉄錆と腐敗臭が混ざったような、不吉な匂いが届いている。

「……ああ、やはり耐えきれませんでしたか」

相沢は、残念そうに小さく呟いた。

彼はゆっくりと立ち上がり、自分のロッカーを開けた。

中から、真っ白な布手袋を一双、取り出す。

そして、業務日報の備考欄に、万年筆で一言だけサラサラと書き記した。

『外出:新宿駅へ応援』

相沢は制帽を目深に被り直すと、静かにセンターを出て行った。

その表情は、これから嵐の中へ向かうとは思えないほど、静謐(せいひつ)だった。

(第7話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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