あの「黒い霧」の暴走から一週間。
新宿駅東口、遺失物取扱センター。
吹き飛んだデスクは新調され、ひび割れた壁も修復された。
破壊された金庫は……まあ、相変わらずそこにあるが、以前のような不気味な唸り声は上げていない。
中身が空っぽになったおかげで、今はただの物言わぬ鉄の箱だ。
俺の顔にはまだ白いガーゼが貼られているが、業務には復帰している。
首にかけているのは、買い替えたばかりの新品のヘッドホン。
最新モデルのハイエンド機だ。
「……チッ、相変わらずうるせえ街だ」
俺は眉間の皺(しわ)を揉みほぐしながら、端末の画面をタップした。
文句は出る。
だが、以前のように胃液が逆流するような、殺気立った悲壮感はない。
ただ単に「うるさいものはうるさい」という、事実確認に近い感覚だ。
***
「あの、すみません」
午後八時。
ギターケースを背負った青年が、力なく入ってきた。
名前はケンジ。二十代前半だろうか。
目元には濃い隈(くま)があり、背負っているギターケースがやけに重そうに見える。
「駅でレコーダーを落としたみたいで……届いてませんか。銀色の、古いヤツなんですけど」
俺は端末を操作し、保管庫を確認した。
該当する物品はある。
俺は保管庫から、その古ぼけたICレコーダーを取り出した。
塗装が剥げ、ボタンの文字も消えかかっている。
だが、それに付着している感情は――「砂嵐」だった。
ザラザラとした不快なノイズ。
その奥から、微かに『まだ歌いたい』『でも無理だ』『才能がない』という、葛藤のメロディが聞こえてくる。
「これか?」
俺はレコーダーをカウンターに置いた。
ケンジの顔がパッと明るくなる――かと思ったが、逆だった。
彼は実物を見た瞬間、顔を引きつらせ、後ずさったのだ。
「あ……」
彼は手を伸ばしかけて、震える指を握りしめた。
ギターケースのベルトをギュッと掴み、視線を床に落とす。
「……やっぱり、いいです」
「あ?」
「いらないです。……処分してください」
ケンジは自嘲気味に笑った。
「田舎に帰るんです。どうせ売れないし、才能ないし。……そんなもん持ってたって、惨めになるだけなんで」
彼はレコーダーから目を背け、踵を返そうとした。
自分の夢を、ここでゴミとして捨てていく気だ。
「……待て」
俺は立ち上がり、逃げるように去ろうとするケンジを呼び止めた。
「処分するかどうかは、俺が決める」
「え? いや、俺がいらないって……」
俺はカウンター越しに身を乗り出した。
いつもならここでゴム手袋を取り出すところだが、俺はその手を止めた。
「手を出せ」
「は?」
俺は返事を待たずに、素手でケンジの手首をガシッと掴んだ。
バチッ。
皮膚と皮膚が直接触れ合い、いつもより鮮明な信号が流れ込んでくる。
《 共有された視界 》
狭い六畳一間のアパート。カップ麺の容器。
誰も立ち止まらない路上ライブ。
冷たい視線。罵声。
『いつまで夢見てんだよ』という友人の言葉。
そして、それでも夜中に布団の中で歌詞を書く、熱病のような衝動。
ザァァァァァ……!
砂嵐のような自己否定のノイズが、俺の脳を引っ掻き回す。
うるさい。不快だ。
だが――。
(……遮断するな。流せ)
あの、食えない笑顔の駅員の言葉が脳裏をよぎる。
『耳を傾けて、流してやるのです』
俺は目を閉じ、深く息を吐いた。
ノイズを壁で弾き返すんじゃない。
川の水を受け流すように、自分という管を通して通過させる。
砂嵐だけをフィルターにかけ、その核にある「音」だけを拾い上げる。
そこにあったのは、純粋すぎで、だからこそ脆くて壊れそうな「音楽への渇望」だった。
***
ドンッ。
俺は目を開け、レコーダーをカウンターに叩き置いた。
掴んでいた手を離す。
「おい」
「は、はい……」
ケンジが怯えたように振り返る。
俺は睨みつけるように言った。
「……悪くねえ音だ」
ケンジが目を見開く。
「え……?」
「才能があるかは知らねえよ。俺は音楽評論家じゃねえからな。ただ……この中に入ってる音は、まだ死んでねえぞ」
俺はトントンと、人差し指でレコーダーを叩いた。
「雑音(まよい)が多すぎて聞こえにくいがな。……持って帰れ」
俺はレコーダーを放り投げ、ケンジの胸に押し付けた。
ケンジは慌ててそれを受け止める。
その手の中で、ICレコーダーを覆っていた「砂嵐」がスゥッと消え、澄んだ光だけが残った。
「ここはゴミ捨て場じゃねえ。……次に落としたら、その時は俺がへし折ってやる」
ケンジは呆気にとられた顔をしていたが、やがてレコーダーを強く、大切そうに握りしめた。
その目に、生気が戻る。
「……っす。……ありがとうございました!」
ケンジは深く頭を下げ、逃げるように、けれど確かな足取りで店を出て行った。
ギターケースの重さが、少しだけ軽くなったように見えた。
「……フン。二度と来んな」
俺は椅子に座り直し、冷めたコーヒーを啜った。
***
業務終了後。
俺は帰り支度を済ませ、集荷コーナーへ向かった。
手には、小さな小包を持っている。
宛先は『吉祥寺駅 遺失物取扱センター 相沢殿』。
中身は、デパートで買った高級なコーヒー豆のセットだ。
そして、一枚のメモ書き。
『借りは返す。あの泥水みたいなインスタントは二度と飲むな。
……あと、余計なお世話だ』
俺は「移送品」の箱に、乱暴にそれを放り込んだ。
これでチャラだ。文句あっか。
***
新宿駅、東口改札前。
地上への階段を上がり、夜の街へと出る。
ネオンが煌めき、巨大ビジョンの広告が明滅する。
相変わらずの喧騒。
行き交う人々の頭上には、『疲れた』『楽しい』『寂しい』『愛してる』『殺したい』という、無数の感情のノイズが溢れ返っている。
俺は首にかけていたヘッドホンを装着した。
いつものように、ノイズキャンセリングのスイッチに指をかける。
世界を遮断し、静寂の中に逃げ込むために。
だが。
俺の指は、スイッチの上で一瞬止まった。
(……まあ、たまにはな)
俺はスイッチを逆方向にスライドさせた。
『アンビエント(外音取り込み)モード、オン』
電子アナウンスと共に、マイクが拾った外部の音が、クリアな音質で耳に飛び込んでくる。
ドッという人波の音。
笑い声。怒鳴り声。靴音。
ノイズが波のように押し寄せてくる。
不快だ。うるさい。耳障りだ。
だが、それは間違いなく、この街で懸命に生きている人間たちが発する「生の音」だった。
俺は雑踏を見上げ、フッと小さく笑った。
「……ああ、うるせえ街だ」
俺はポケットに手を突っ込み、ノイズの海へと歩き出した。
新宿の夜は、まだ始まったばかりだ。
(『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』 完)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
Next Season…
連載小説『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』
「私、人助けがしたいんです」
次なる舞台は、おばあちゃんの原宿・巣鴨。
他人の感情を「匂い」で感じ取り、我が身に吸い込んで浄化する新人係員・峰岸理沙。
その献身的な「善意」が、やがて彼女自身を蝕む猛毒に変わるとも知らずに……。
温かい人情の街で静かに進行する、美しくも残酷な崩壊の物語。お楽しみに!


