巣鴨の午後は、穏やかだ。
地上の商店街は買い物客で賑わっているが、地下にあるこのセンターには、ぽかぽかとした陽だまりのような時間が流れている。
「ん~、美味しい」
理沙は、常連のおばあちゃんから差し入れでもらった「塩せんべい」を齧(かじ)りながら、ほうじ茶をすすった。
先日、ハンカチを返した梅さんが、商店街の井戸端会議で理沙のことを「あの子は福の神だよ」と広めてくれたらしい。
おかげで最近は、探し物ついでに世間話をしに来るお年寄りが増えていた。
「私、この仕事向いてるのかもなぁ」
理沙は小さくつぶやき、ふふっと笑った。
誰かの役に立てる。笑顔になってもらえる。
それがこんなにも嬉しいことだなんて、就職するまで知らなかった。
私のこの「力」は、きっとこのためにあったんだ。
ガララッ!!
突然、乱暴な音を立てて自動ドアが開いた。
「おい、ねえか! わしの王将!」
入ってきたのは、作務衣を着た強面のおじいさんだった。
白髪交じりの短髪に、太い眉。顔には深い皺(しわ)が刻まれている。
商店街の将棋クラブの常連、源三(げんぞう)だ。
彼はいつもなら威勢がいいのだが、今日はひどく苛立っている様子で、肩を怒らせてカウンターに歩み寄ってきた。
「王将……将棋の駒ですか?」
「おうよ! 黄楊(つげ)の木でできた、いい駒なんだ。昨日の対局で勝ったのが嬉しくてよぉ、帰りの駅のホームで眺めてたんだが……気づいたら手元になかった」
源三はカウンターをバンと叩いた。
「電車が来て、慌てて乗った時にベンチに置き忘れたんだ。……信じられるか? あれほど大事にしてたもんを、コロッと忘れてきちまうなんてよ」
「ったく、最近これだ。眼鏡はどこやった、財布は持ったか……いちいち確認しなきゃならねえ。情けなくて涙が出てくらぁ」
源三は悔しそうに顔を歪めた。
「もうろくしたもんよ。……いっそ、将棋なんて辞めちまおうかと思ってな」
理沙は、源三の言葉の端々に滲む「弱気」を感じ取った。
彼女は鼻をスンと鳴らす。
(うわ……すごい匂い)
鼻を突いたのは、使い古された畳の匂いと、それに混じったツンとする**「湿布(メンソール)」の刺激臭**だった。
それは、思うように動かない体への苛立ちや、老いていくことへの恐怖が発する、独特の匂いだった。
「探してきますね。源三さん、そこに座って待っててください」
理沙は奥の棚へ向かった。
湿布の匂いを辿っていくと、すぐにそれは見つかった。
小さな巾着袋に入った、将棋の駒。
だが、理沙の目には、その美しい木目の駒が、ドロリとした**「灰色の泥」**で覆われているように見えた。
『品名:感情(摩耗型)』
『成分:老いへの焦り、自己嫌悪、および気力の低下』
その泥は、粘着質で重そうだ。
源三の『王将(プライド)』を、老いという泥が覆い隠してしまっている。
(こんなの、源三さんには似合わないよ)
理沙は思った。
あのおじいちゃんには、いつまでも「王手!」って元気に叫んでいてほしい。
「辞めちまおうか」なんて、寂しいこと言わないでほしい。
理沙は巾着袋を手に取り、誰も見ていない死角で、泥に向かって手を伸ばした。
(取れろ、取れろ。元気になあれ)
彼女は指先に力を込め、灰色の泥を掬い取るようにイメージした。
ズズズ……。
今回の感情は、前回の「煤(すす)」よりも粘り気が強く、重かった。
理沙の指に絡みつき、抵抗するようだ。
それでも理沙は、笑顔の源三を思い浮かべながら、一気にそれを吸い込んだ。
ドスン。
「うぐっ……!?」
その瞬間、理沙は小さく呻き声を上げた。
背中の中心に、重いゴムボールを至近距離でぶつけられたような、鈍い衝撃が走ったのだ。
呼吸が一瞬止まる。
(いっ、たぁ……なに、今の……?)
理沙は背中に手を回そうとしたが、すぐに思い直した。
待たせちゃいけない。
彼女は深呼吸をして痛みを散らすと、作り笑いを浮かべて振り返った。
***
「ありましたよー! 大事な王将!」
理沙が駒を渡すと、源三はそれをひったくるように受け取った。
そして、愛おしそうに指で表面を撫でる。
そこにはもう、灰色の泥はない。使い込まれて艶の出た、誇り高い「王将」が輝いているだけだ。
「……おう、これだこれだ」
源三の声から、湿っぽい響きが消えた。
彼はカッと目を見開き、背筋を伸ばした。
「へっ、これさえありゃあ、まだまだ負けやしねえよ! 町内会の若造なんぞにデカイ顔はさせん!」
「ふふ、その意気ですよ」
「おうよ! ありがとな、姉ちゃん!」
源三はニカっと笑うと、足早に出ていった。
「よし、これから一局指してくるか!」
その元気な声は、自動ドアが閉まった後も微かに聞こえていた。
「よかった……」
理沙はほっと息をついた。
今日もまた一人、笑顔にできた。
背中の違和感はまだ少し残っているけれど、あのおじいちゃんの笑顔が見られたなら、安いものだ。
***
その夜。
理沙はアパートに帰り、シャワーを浴びていた。
「ふぅ……今日はなんか疲れたなぁ」
湯気の中で体を洗いながら、ふと、背中の痛みを思い出した。
彼女はバスタオルを巻き、洗面所の鏡に背中を映してみた。
「……え?」
理沙は目を丸くした。
昨日は「小さな点」だったものが、今日は**「十円玉くらいの大きさ」**に広がっていたのだ。
色は薄墨を垂らしたように黒く、周囲の白い肌との境界がぼんやりと滲んでいる。
「うわ、なにこれ……痣(あざ)?」
理沙は首を傾げた。
「どこかにぶつけたっけ……? あ、そういえば棚の角で……」
思い返してみても、明確な記憶はない。
でも、あの時「ドスン」という衝撃があったのは確かだ。
きっと、無意識のうちにどこかに強打していたんだろう。
「やだなぁ、おっちょこちょいだなぁ私」
理沙は苦笑いしながら、救急箱から湿布を取り出した。
ペタリ。
ひんやりとした感触が、熱を持った黒いシミを覆う。
洗面所に、ツンとしたメンソールの匂いが広がった。
「……あれ? この匂い」
理沙は鼻をひくつかせた。
「今日のおじいちゃんの匂いと、一緒だ」
奇妙な偶然だね、と理沙は呑気に思った。
彼女はパジャマを着て、ベッドに潜り込むと、すぐに深い眠りに落ちていった。
背中のシミが、湿布の下で微かに脈打ち、さらに根を張ろうとしていることになど、気づきもしないまま。
(第3話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

