連載小説『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』第3話 ~定年退職の万年筆~

その日は、朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。

巣鴨の地蔵通り商店街も、今日ばかりは人通りがまばらだ。

地下にある遺失物取扱センターの中にも、湿った空気が重く淀んでいた。

「……うぅ、体が重い」

理沙は誰もいないカウンターで、ぐったりと突っ伏していた。

今朝から、体が鉛のように重い。

背中の痛みも引くどころか、範囲が広がっているような気がする。昨夜貼った湿布も、あまり効果がないようだ。

「気圧のせいかなぁ。雨の日は古傷が痛むって言うし……って、私まだ二十二歳なんだけど」

理沙は無理やり自分にツッコミを入れて、頬をパンパンと叩いた。

「しゃきっとしなきゃ。こんな天気の中来てくれるお客さんもいるんだから」

カランコロン。

まるで理沙の気合に呼応するように、ドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ!」

理沙は努めて明るい声を張り上げた。

入ってきたのは、六十代半ばくらいの男性――田所(たどころ)だった。

仕立ての良いスーツを着ているが、ネクタイはしていない。

その背中は、雨に打たれた野良犬のように小さく丸まっていた。

「あの……万年筆を、届けていないでしょうか」

田所の声は、消え入りそうに細かった。

「黒くて、太い軸のものです。勤続四十年の記念に、会社から頂いたもので……」

「大切なものなんですね。すぐに確認します」

理沙が端末を操作している間、田所は独り言のように呟いた。

「定年退職した翌日に失くすなんて……やっぱり私は、終わった人間なんです」

「え?」

「会社に行かなくなったら、自分が何者なのか分からなくなってしまった。あの万年筆は、私が社会に必要とされていた唯一の証だったのに……」

田所の目には、深い虚無感が漂っていた。

理沙の鼻が、その感情の匂いを捉える。

(うわ……冷たい匂い)

それは、**「雨上がりの濡れたコンクリート」や、流れの止まった「澱んだ水」**のような、冷たく湿った匂いだった。

理沙は奥の棚から、重厚な木箱に入った万年筆を見つけ出した。

そこには、田所の心そのもののような**「灰色の霧」**が、万年筆にべったりとまとわりついていた。

『品名:感情(喪失型)』
『成分:虚無感、所属の喪失、および過去への執着』

(四十年間も頑張ってきたのに……こんなに悲しい気持ちになるなんて、間違ってるよ)

理沙は思った。

定年は「終わり」じゃなくて、自由な時間の「始まり」のはずだ。

このおじさんには、これからの人生を楽しんでほしい。

理沙は木箱を手に取り、大きく息を吸い込んだ。

体調は悪い。でも、だからこそ、この冷たい霧を放っておけなかった。

(飛んでいけ、飛んでいけ。新しい朝が来るよ)

理沙は霧の中に指を沈めた。

ヒヤリ。

指先から、氷水を注ぎ込まれたような強烈な悪寒が走った。

今回の感情は、粘着質ではない代わりに、芯まで凍えるような冷たさを持っていた。

「くっ……!」

霧を吸い込んだ瞬間、理沙の視界がぐらりと歪んだ。

猛烈なめまい。

彼女は思わずカウンターに手をつき、荒い息を吐いた。

(あれ……貧血? 立ちくらみかな……)

額に脂汗が滲む。

それでも理沙は、震える足で踏ん張り、笑顔の仮面を貼り付けた。

***


「お待たせしました、田所さん。こちらですね」

理沙が万年筆を差し出すと、田所はおずおずとそれを受け取った。

その瞬間、彼を取り巻いていた湿っぽい空気が、サァーッと晴れていった。

「……ああ、そうだ」

田所は万年筆の感触を確かめ、顔を上げた。

その瞳には、先ほどまでの虚ろな光はない。

「私はずっと、会社のためにこれを握っていた。……でも、これからは自分のために使ってもいいんですよね」

「はい、もちろんです!」

理沙が答えると、田所は穏やかに微笑んだ。

「妻に、手紙でも書いてみようかな。……いや、昔なりたかった小説家にでも挑戦してみるか」

「素敵です! 応援してます!」

田所は「ありがとう」と力強く言い、背筋を伸ばして雨の中へと帰っていった。

その足取りは、来た時とは別人のように軽やかだった。

理沙はそれを見送ると、ガクンと膝から崩れ落ちた。

「はぁ、はぁ……よかった……」

椅子に座り込み、ぐったりと背もたれに寄りかかる。

なぜだろう。いいことをしたはずなのに、体の芯が凍えたように寒い。

「風邪ひいちゃったかな……」

理沙は自分の体を抱きしめ、小さく震えた。

***


翌朝。

理沙のアパートのベッド。

「……んぅ」

目覚まし時計の音が鳴っているが、理沙は体を起こすことができなかった。

全身が、泥に埋まったように重い。

関節という関節が軋み、熱っぽい倦怠感が体を支配している。

「嘘……動かない……」

理沙は必死に力を込め、這い出すようにしてベッドから降りた。

よろめきながら洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。

背中の痛みが、ズキズキと脈打っている。

彼女はパジャマを捲り上げ、背中を映した。

「ッ!?」

理沙は息を呑んだ。

背中の中心にあった「十円玉くらいのシミ」が、一晩で爆発的に広がっていた。

それはもう、「コースター」……いや、**「大人の手のひら」**ほどの大きさになっていた。

色は濃い墨汁のように黒く、皮膚の下で何かが蠢(うごめ)いているかのように、不気味な模様を描いている。

「なにこれ……え、なにこれ……」

理沙は震える手で黒い痣(あざ)に触れた。

痛みはない。ただ、そこだけ皮膚の感覚がなく、冷たいゴムに触れているようだ。

「変なウイルス? 皮膚炎? ……それとも、過労?」

まさか、自分が吸い取った「感情」が溜まっているなんて、想像もしない。

彼女にとって、能力は「消して無くすもの」であって、「溜まるもの」ではなかったからだ。

「……でも、行かなきゃ」

理沙は青ざめた顔で、解熱剤の瓶を手に取った。

「今日もお年寄りが待ってる。私が休んだら、誰があの人たちを笑顔にするの?」

理沙は薬を水で流し込み、頬を両手で叩いた。

鏡の中の自分に、無理やりの笑顔を作る。

その背中で、黒い痣がドクンと一つ、大きく脈打った。

(第4話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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