午後三時。
巣鴨のセンター内は、いつもならお年寄りたちの世間話で和やかな時間が流れているはずだった。
だが今日、理沙の目に映る景色は、水槽の中のようにゆらゆらと歪んでいた。
「……あつい」
理沙は誰もいないカウンターの裏で、冷えたペットボトルを額に押し当てていた。
解熱剤を飲んで無理やり出勤したが、熱は下がるどころか上がっている気がする。
背中の痣(あざ)が、まるで焼けた鉄板を押し付けられているように熱い。
節々が痛み、立っているだけで息が切れた。
「薬、効かないなぁ……。でも、あと三時間頑張れば……」
「ギャアアアアアアアア!!」
突然、センターの空気を切り裂くような絶叫が響いた。
理沙はビクリと肩を跳ねさせ、ふらつく足でカウンターへ向かった。
自動ドアの向こうから入ってきたのは、ベビーカーを押した若い女性――美咲(みさき)だった。
その形相は、鬼気迫るものがあった。
髪は振り乱れ、目の下にはどす黒い隈(くま)があり、頬はこけている。
そしてベビーカーの中では、二歳くらいの男の子――翔(しょう)が、顔を真っ赤にしてのけぞり、この世の終わりのように泣き叫んでいた。
「すみません……! 落とし物を……!」
美咲の声は掠れ、悲鳴に近かった。
「子供の、ガラガラです……! あの音がしないと、この子、絶対に泣き止まないんです……!」
「うわぁぁぁぁぁん!! ギャーッ!!」
翔の泣き声は、ただの夜泣きではない。鼓膜を直接突き刺すような、金属的な癇癪(かんしゃく)だ。
理沙の頭痛がガンガンと警鐘を鳴らす。
「す、すぐに探しますね」
理沙は朦朧(もうろう)とする意識を叱咤し、棚へ向かった。
体調不良で鼻が詰まっているはずなのに、その「匂い」だけは強烈に突き刺さってきた。
(うっ……なに、この匂い)
鼻腔を襲ったのは、**「腐った果実」と「原液の酢」を混ぜ合わせたような、鼻が曲がりそうな酸っぱい刺激臭だった。 理沙は吐き気をこらえ、その発生源を見つけた。 カラフルなプラスチックのガラガラ。 だが、理沙の目には、その表面にびっしりと「黒い金平糖(こんぺいとう)」**のような結晶がこびりついているのが見えた。
『品名:感情(爆発型)』
『成分:強烈な独占欲、嫉妬、および言語化できない苛立ち』
トゲトゲとした、鋭利な結晶。
それは、下に兄弟ができたことへの嫉妬や、ママを独占したいという、幼児特有の純粋ゆえに凶暴なエゴの塊だった。
理沙は振り返り、美咲を見た。
彼女はベビーカーを揺らしながら、虚ろな目で「もう嫌……お願いだから黙って……」と呟いている。
限界だ。このままでは、あのお母さんが壊れてしまう。
(私が……私がなんとかしなきゃ)
理沙の思考回路は、熱で麻痺していた。
自分の体の危険信号よりも、「人助け」という強迫観念が上回る。
彼女は震える手で、ガラガラを掴んだ。
(痛いの痛いの、飛んでいけ……)
理沙は黒い金平糖の結晶に、指を触れた。
いつもなら、スゥッと煙のように吸い込まれるはずだった。
だが、今回は違った。
ガリッ。
「――ぐっ!?」
理沙の喉の奥から、くぐもった悲鳴が漏れた。
痛い。
吸い込んだ瞬間、喉の内側を、無数のガラス片が擦り落ちていくような激痛が走ったのだ。
食道が裂けるような感覚。
「黒い金平糖」は溶けることなく、固形のまま理沙の体内へと侵入し、内臓を傷つけながら背中の方へと流れていく。
「はっ、ぐぅ……ッ!」
理沙はカウンターの下に崩れ落ちそうになるのを、必死で肘で支えた。
脂汗が滝のように流れる。
それでも、彼女は笑顔を作った。引きつった、能面のような笑顔を。
***
「は、はい……どうぞ」
理沙がガラガラを渡した、その瞬間だった。
「キャハハハハ!」
翔が、ピタリと泣き止んだ。
それどころか、ガラガラを握りしめ、満面の笑みでケラケラと笑い出したのだ。
その変化はあまりに急激で、どこか人間味のない、スイッチを切り替えたような不気味さがあった。
「あ……泣き止んだ……」
美咲はその場にへたり込み、ボロボロと涙を流した。
「よかった……ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
美咲の感謝の言葉が、理沙には遠くの水底からの音のように聞こえた。
視界がグルグルと回転する。
天井の蛍光灯が、伸びたり縮んだりして見える。
「い、いえ……お大事、に……」
理沙はそう言うのが精一杯だった。
親子が帰った後、理沙は「早退させてください」というメモを残し、逃げるようにセンターを出た。
***
その夜。
理沙のアパートの部屋は、熱気と悪夢に支配されていた。
『お前が望んだんだろ?』
『全部、お前のものだ』
夢の中で、無数の声が嘲笑う。
これまで吸い取ってきた、おばあちゃんの「煤(すす)」。おじいちゃんの「泥」。定年男性の「霧」。
そして今日の、鋭利な「黒い金平糖」。
それらが理沙の体内で混ざり合い、ドロドロとした黒いヘドロとなって、内側から理沙の肉体を食い破ろうと暴れまわっている。
「いや……やめて……入ってこないで……!」
理沙はうわ言を漏らし、シーツを握りしめた。
熱い。痛い。苦しい。
背中が、焼けるように熱い。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
理沙は自分の絶叫で目を覚ました。
ハァ、ハァ、ハァ……。
荒い呼吸。全身が汗でびっしょりと濡れている。
心臓が早鐘を打っている。
「夢……?」
理沙は震える手で、自分の背中に触れた。
ざらりとした、異様な感触があった。
皮膚ではない。もっと硬く、脈打つ何か。
理沙はふらつく足で洗面所へ走り、電気をつけた。
そして、恐る恐るパジャマを捲り上げ、鏡越しに自分の背中を見た。
「…………ひっ」
喉から、空気が漏れる音がした。
背中にあった「黒いシミ」は、もうシミではなかった。
それは、**真っ黒な「蔦(ツタ)」**に変貌していた。
血管のように、あるいは寄生植物のように。
黒い蔦は背中全体を這い回り、肩甲骨を超え、いまや首筋の方へと侵食しようと触手を伸ばしていた。
それは皮膚の上に描かれているのではない。
皮膚の下、肉と一体化して、理沙の生命力を吸い上げながら成長しているのだ。
「嘘……なにこれ……」
理沙はタオルで背中を擦った。
取れない。痛くもない。ただ、そこにある。
自分の体が、自分のものでなくなっていく恐怖。
「助けて……誰か、助けて……」
深夜の洗面所。
理沙の悲痛な呟きは、誰にも届くことなく、排水溝へと吸い込まれていった。
鏡の中の理沙の瞳からは、かつての明るい光が消え、深い絶望の色が宿り始めていた。
(第5話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

