朝。
巣鴨のセンターに差し込む蛍光灯の光が、理沙の目には針のように痛かった。
「……くさい」
理沙はマスクの上から鼻を押さえ、呻くように呟いた。
彼女の首には、季節外れの厚手のスカーフが巻かれている。それは、襟元から首筋へと這い上がってきた「黒い蔦(つた)」を隠すためのものだった。
カウンターの隅に、常連のお年寄りが置いていった「みかんのカゴ」がある。
昨日までは、瑞々しいオレンジ色に見えていた。
だが今、理沙の目に映っているのは、ドロドロに腐敗し、青カビが生え、小さな羽虫がたかっているグロテスクな果実の山だった。
(捨てなきゃ……いや、触りたくない)
強烈な腐敗臭が鼻を突く。
理沙の五感は、完全に狂い始めていた。
体内に蓄積された膨大な「ネガティブな感情」が、フィルターのように彼女の感覚を覆い、世界を醜悪な姿へと書き換えているのだ。
ガラガラッ。
扉が開く音が、耳障りなノイズとして響く。
「あら、峰岸さん。おはよう」
入ってきたのは、先日、孫へのハンカチを探しに来た梅さんだった。
「昨日、顔色が悪かったから気になってね。栄養ドリンク持ってきたのよ。無理しちゃだめよ」
梅さんは慈愛に満ちた笑顔で近づいてくる。
本来なら、それは「陽だまりの匂い」がするはずだった。
だが今の理沙には、梅さんの笑顔が不気味に歪んで見えた。
そこから漂うのは、まとわりつくような**「生温かい湿気」と、鼻につく「安っぽい香水」**のような匂い。
(……うっとうしい)
理沙の脳裏に、どす黒い感情が湧き上がる。
心配? 親切?
違う。これは「私は若者を気遣う良い年寄りだ」という自己満足だ。
押し付けがましい。重い。気持ち悪い。
「ほら、これ飲んで……」
梅さんが理沙の手を握ろうとした瞬間。
「触らないで!!」
理沙は叫び、反射的にその手を振り払った。
バシッ!
乾いた音が響く。梅さんが驚いて目を見開く。
「え……峰岸さん?」
「あ……」
理沙は自分の手に残る感触に震えた。
違う、そんなつもりじゃ。謝らなきゃ。
でも、口から出たのは、冷たい拒絶の言葉だった。
「……放っておいてください。今は、誰とも話したくないんです」
梅さんは悲しげに眉を下げ、「ごめんなさいね……」と小さく呟いて、栄養ドリンクを置いて出て行った。
理沙はカウンターに突っ伏した。
自己嫌悪で胸が潰れそうだったが、それ以上に、梅さんが去ったことで「あの不快な匂い」が消えたことに、安堵している自分がいた。
***
午後。
一人の男性が、足音荒く入ってきた。
「すみません! 腕章! 腕章届いてませんか!」
五十代くらいの、恰幅の良い男性――金子(かねこ)。
彼は地域の防犯パトロール隊のボランティアリーダーだ。
「いやぁ、駅前の放置自転車をね、整理していたんですよ。点字ブロックの上にはみ出して停めるなんて、けしからんでしょう?」
金子は額の汗を拭いながら、まくし立てた。
「夢中で動かしていたら、いつの間にか外れてしまったようで……。これがないと示しがつかない! 街の安全を守るのが、私の使命ですから!」
金子はハキハキと大きな声で喋る。
普段の理沙なら、「正義感の強い、頼れるおじさん」に見えていただろう。
だが、今の理沙には、彼が吐き出す息が**「ヘドロ」**のように見えた。
(うるさい。臭い。使命? 笑わせないで)
理沙の目には、金子の全身から**「承認欲求」と「支配欲」**の黒いオーラが立ち上っているのが見えた。
『俺は偉い』『俺に感謝しろ』『俺に従え』。
正義の皮を被った、醜いエゴの塊。
その悪臭に、理沙は吐き気を催した。
「……これですか」
理沙は、トングを使って緑色の腕章を摘み上げた。
そこには、金子の「焦り」が少し付着していた。
いつもなら、それを吸い取って浄化して返していただろう。
だが、理沙の中で何かが切れた。
(あんたなんかに、綺麗な心なんて似合わない)
(私の体の中にある、このドロドロした気持ち悪いもの……あんたにも分けてあげる)
理沙は無意識のうちに、指先に力を込めた。
いつもとは逆。
吸い込むのではなく、**「注ぎ込む」**イメージ。
ドクン。
理沙の背中の痣が脈打った。
体内に溜まっていた膨大な「悪意のヘドロ」の一部が、指先を通って逆流し、腕章へと染み込んでいく。
緑色の腕章が、理沙の目にはどす黒く変色したように見えた。
「はい、どうぞ」
理沙は、呪いのアイテムと化した腕章を渡した。
「おお、ありがとう! これでまた街を守れる!」
金子は何の疑いもなく腕章を受け取り、腕に巻いた。
その瞬間。
金子の表情が、ピクリと止まった。
爽やかだった笑顔が消え、口元がだらしなく歪む。
目つきが濁り、陰湿な光が宿る。
「……チッ」
金子は舌打ちをした。
「なんで俺が、こんなタダ働きしなきゃなんねえんだよ」
「え?」
「クソ暑い中、徘徊老人どもの世話なんか知るかよ。……おい、邪魔だぞ」
金子は理沙を睨みつけると、肩を怒らせて出て行った。
「誰か文句言ってきたら、怒鳴りつけてやるか……」
その背中からは、隠していた本音が溢れ出し、周囲に悪意を撒き散らしていた。
それを見送った理沙は、ゾッとするどころか、口角を吊り上げていた。
「……あはっ」
乾いた笑い声が漏れる。
「そっちの方が、お似合いだよ」
スッキリした。
自分の中に溜まっていたゴミを、他人に押し付けた快感。
理沙の中で、倫理の堤防が決壊した。
***
同時刻。吉祥寺駅、遺失物取扱センター。
静寂に包まれた部屋で、相沢がふと顔を上げ、万年筆を置いた。
彼は窓のない壁の方――北の方角を、じっと見つめた。
「……風の匂いが、変わりましたね」
相沢は鼻をかすかに動かした。
微かに漂ってくるのは、腐った果実と、焦げたゴム、そして下水のような臭気。
物理的な風ではない。感情の気流が運んでくる、不吉な予兆。
新宿の時とは違う、もっと陰湿で、根深い何かが腐敗している気配。
相沢は端末を取り出し、短いメッセージを打ち込んだ。
『宛先:新宿センター 須藤殿』
『本文:新宿の方、異常はありませんか? なければ、近々、**管轄外への『出張』**になるかもしれません。耳栓の準備を』
***
夜。
閉館した巣鴨のセンターで、理沙は一人、洗面所の鏡の前に立っていた。
彼女はゆっくりと、首のスカーフを解いた。
「…………」
鏡に映った自分の姿を見ても、もう悲鳴は出なかった。
背中から伸びた黒い蔦は、首を完全に覆い尽くし、左の頬にまで達していた。
白い肌に刻まれた、刺青のような黒い紋様。
それは不気味に脈打ち、理沙の脳髄へと根を伸ばしている。
理沙は、鏡の中の自分に向かってニヤリと笑った。
かつての朗らかな笑顔ではない。
光の消えた瞳に、暗い炎が揺らめく、魔女のような微笑み。
「私だけが苦しむなんて、不公平だよね」
理沙は黒く染まった指先で、頬の蔦を愛おしそうになぞった。
「みんな、私と同じになればいい。……この街ごと、全部」
巣鴨の地下で、一人の「人助けが好きだった少女」が死んだ。
そして代わりに、悪意を増幅させてばら撒く、悲しき「女王」が誕生した。
(第6話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

