連載小説『感情の忘れ物』 第2話 ~名前のない定期券~

窓口に置かれたその定期券は、券面の文字が摩耗してほとんど読めなくなっていた。

かろうじて読み取れるのは『高円寺』から『新宿』という区間と、少し先の有効期限の日付だけ。

持ち主の名前は、指で擦られ続けたせいで完全に消え失せている。

相沢は、その定期券の横に置かれたアクリルケースを静かに見下ろした。

中には、ベージュ色の粒子がさらさらと流動している。

手袋越しに触れてみる。

……乾いているな

温度はない。熱くも冷たくもなく、ただひたすらに乾いている。

指の隙間をすり抜けていくような、頼りない感触。

重さも感じない。けれど、そこには確かな「虚しさ」が漂っている。

相沢は日報に記した。

『拾得日時:〇月×日 午後六時三十分』
『拾得場所:高円寺駅 自動改札機付近』
『品名:感情(単一型)』
『成分:諦め』

それは、何かを投げ出した時の乱暴な感情ではない。

長い時間をかけて削り取られ、風化し、最後に残った砂のような感情だった。

***


「すみません。定期券、届いてませんか」

自動ドアが開くと、ギターケースを背負った男が入ってきた。

髪はボサボサで、着古したモッズコートからは微かに煙草とスタジオの防音壁の匂いがした。年齢はもう三十手前だろうか。

相沢は、手元の定期券を提示する。

「こちらのものでしょうか?」

男はパッと顔を輝かせたが、すぐにどこか安堵と落胆が入り混じったような複雑な笑みを浮かべた。

「あ、そうです。よかった、見つかって」

男は定期券を受け取ったが、それを財布に戻そうとはせず、指先で弄ぶように眺めた。

「実はさ、もう戻ってこなくてもいいかなって、ちょっと思ってたんです」

男は独り言のように呟いた。

「俺、バンドやってて。十年やって、全然芽が出なくて。今度のライブで客が入らなかったら解散だって話になってて……」

彼は、どこか晴れ晴れとした顔で相沢を見た。

「これを落とした時、なんかスーッと体が軽くなったんですよ。ああ、もう潮時なのかなって。神様が『もう東京に通わなくていいよ』って言ってるのかなって」

男の表情は明るい。

だが、相沢には見えていた。彼の心が「空っぽ」であることを。

今の彼は、夢を諦めたのではない。ただ、夢を支えていた重荷を落として、思考停止しているだけだ。

このままでは、彼は「次」へ進めない。ただ流されて、未練だけを引きずり続けることになる。

相沢は静かに告げた。

「お客様。お体が軽くなったのは、神様の啓示ではありません」

相沢は、砂の入ったケースをカウンターに滑らせた。

「あなたが長い時間をかけて積み重ね、最後に置き忘れてしまった『結論』が、ここにあるからです」

男は不思議そうにケースを見た。

「結論……?」

「どうぞ、お確かめください」

男が半信半疑でケースに触れる。

その瞬間、さらさらと流れていた砂が、彼の中で急速に固まった。

***


《 男の感覚 》

乾いた砂が、喉の奥に詰まるような感覚。

十年間の記憶が走馬灯のように駆け巡る。

初めてギターを買った日。狭いライブハウスの熱気。ノルマを払うための深夜バイト。メンバーとの喧嘩。一向に増えない動員数。

「売れるわけない」と笑った地元の友人の顔。

「いつまで遊んでるんだ」という親の電話。

それら全てを飲み込んで、彼は何度も何度も「辞めよう」と思った。

それでも辞めなかったのは、音楽が好きだったからだ。

だが、その「好き」だけではもう走れないところまで来てしまったという事実。

その「事実」を認めることは、敗北ではない。

自分の足で、ここから降りるという決断だ。

乾いた砂は、男の足元で硬い土台となった。

ふわふわと浮いていた心が、地面に着地する。

その瞬間、胸の奥底から、熱い塊がこみ上げてきた。

***


「……くそっ」

男が呻いた。

カウンターに突っ伏し、ギターケースを背負ったまま、震え始めた。

「悔しいな……。ああ、くそ、悔しいなぁ!」

先ほどの晴れやかな表情は消えた。顔を歪め、ボロボロと涙をこぼす。

それは、夢が終わったことへの悲しみであり、十年間の自分への弔いだった。

「俺、頑張ったんだけどな……。武道館、行きたかったな……」

相沢はその慟哭を、ただ静かに聞いていた。

「諦め」という感情を受け入れたからこそ、彼は初めて、心から悔しがることができたのだ。

しばらくして、男は顔を上げた。

目は真っ赤だったが、その表情からは先ほどの「空虚な明るさ」は消えていた。

地に足のついた、大人の男の顔だった。

「お兄さん。ありがとな」

男は定期券を握りしめ、そして言った。

「これ、もう更新しないわ。今度のライブで解散して、田舎帰って……親父の工場、手伝うことにする」

「そうですか」

「でも、音楽は嫌いになんねえよ。趣味で続けるさ」

男は定期券をポケットに突っ込み、ギターケースを担ぎ直した。その背中は、来た時よりも重そうだったが、力強かった。

自動ドアが開き、男は雑踏の中へと歩き出していった。

相沢は、彼が去った後のカウンターを布巾で拭いた。

「諦める、か」

相沢は小さく呟く。

「『諦める』の語源は、『明らめる』……物事を明らかにする、という意味だそうです」

誰に聞かせるでもなく、彼は虚空に向かって語った。

夢が叶わなかった事実を明らかにして、受け入れる。

それは決して逃げではなく、次の道を選ぶための儀式なのだ。

「……僕には、まだ明らかにできないことばかりですが」

相沢はふと、棚の奥を見た。

分類不能品」の棚にある、透明な欠片たち。

それらは相変わらず、無色透明のまま、静かに彼を見つめ返していた。

相沢は自分の胸に手を当てる。

そこにあるのは乾いた砂でも、熱い鉛でもない。

ただ、形のない風が吹き抜けているだけだった。

(第3話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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