連載小説『感情の忘れ物』 第3話 ~殺意の小瓶~

その日、相沢は開店と同時に暖房の設定温度を上げた。

季節は初夏だというのに、カウンターの内側だけが異常に冷え切っていたからだ。

原因は、目の前にある一つの小瓶だった。

それは今朝、中央線の網棚から回収されたものだ。

小瓶の中には、凍てつくような青白い光が渦巻いている。

相沢が手袋越しに触れると、ジジジ……という音と共に、ドライアイスに素手で触れた時のような「焼ける冷たさ」が走った。

皮膚が張り付くような感覚。そして、無数の鋭利な針が指先を刺してくるような痛み。

相沢は顔をしかめ、思わず手を引っ込めた。

吐く息が白くなりそうだ。

業務日報に向かう手も、微かに震えている。

『拾得日時:〇月×日 午前七時』
『拾得場所:中央線 青梅特快(上り)6号車』
『品名:感情(攻撃型)』
『成分:純粋な殺意』

これほど純度が高く、鋭利な殺意は珍しい。

この持ち主は、誰かを殺したいと願っている。それも、突発的な怒りではなく、冷徹に、確実に息の根を止めようとする、研ぎ澄まされた刃のような意志だ。

相沢は、その横にある「物理的な忘れ物」に視線を移した。

画面が蜘蛛の巣状にひび割れた、ピンク色のスマートフォン。

その破壊の痕跡が、持ち主の置かれている壮絶な状況を物語っていた。

***


正午過ぎ。

センターの自動ドアが開き、一人の女性が入ってきた。

三十代だろうか。上品なワンピースを着ているが、その顔色は蝋人形のように蒼白だった。

首元には、季節外れのスカーフが巻かれている。おそらく、下にある痣を隠すためのものだろうと相沢は推測した。

「あの……スマホを、忘れてしまって」

声が震えている。彼女は周囲を怯えたように見回し、誰かに追われているかのような挙動を見せた。

相沢は割れたスマートフォンをカウンターに出した。

「こちらですね」

女性はそれを見ると、安堵したように息を吐き、そしてすぐに表情を曇らせた。

「ああ……これがないと、あの人が帰ってきた時に……また……」

彼女はスマホを握りしめたが、その手には力が入っていなかった。

相沢は、規定通りに事務を進めるべきだった。

だが、カウンターの下にある「小瓶」に手が伸びない。

(これを返せば、どうなる?)

この強烈な「殺意」を彼女に戻せば、彼女は帰宅後、包丁を握るかもしれない。

あるいは、寝ている夫の首を絞めるかもしれない。

忘れ物を返すことで、殺人が起きる。

それは「遺失物係」の仕事と言えるのだろうか。

「お客様」

相沢は珍しく、業務外の言葉を口にした。

「失礼ですが、これを、持ち帰る必要はありますか?」

「え?」

「スマートフォンはお返しします。ですが……もう一つのお忘れ物は、ここで処分することも可能です」

相沢は小瓶をカウンターに置いた。

冷気が広がる。女性の視線が、その青白い渦に釘付けになる。

「それは、非常に危険なものです。あなたが抱えきれず、こぼれ落ちてしまったほどの『殺意』です。これを持ち帰れば、あなたは一線を越えてしまうかもしれない」

相沢の忠告は、半分は彼女のためであり、半分は彼自身の良心のためだった。

しかし、女性は小瓶を見つめたまま、静かに首を横に振った。

「……いいえ、返してください」

「ですが」

「それは『殺意』ではありません」

女性の声から、怯えが消え始めていた。

「それは、私が生きるために必要なものです」

彼女は躊躇なく、その凍てつく小瓶に手を伸ばした。

相沢が止める間もなかった。

彼女の指が、見えない冷気に触れる。

キィン、と高い音が相沢の脳内で鳴った。

***


《 女性の感覚 》

冷たい。

けれど、それは震えるような寒さではない。

熱した鉄を水に突っ込んだ時のような、硬質化の感覚だ。

夫の暴力。罵倒。子供への威嚇。

「私が我慢すればいい」と自分を殺してきた日々。

けれど、昨日、夫の手が子供に向いた瞬間、彼女の中で何かが弾けた。

恐怖が裏返り、氷のような決意に変わったのだ。

このままではいけない。

刺し殺すのではない。

社会的に、法的に、物理的に、彼との縁を「断ち切る」。

そのために戦うという、退路を断った意志。

彼女の中に流れ込んだ冷気は、背骨を貫き、折れそうだった心を鋼のように補強した。

それは相手を殺すための刃ではなく、自分と子供を守るための「盾」だったのだ。

***


女性が顔を上げた。

その瞳には、もう「被害者」の弱々しさなど微塵もなかった。

背筋が伸び、纏っている空気が一変していた。

「これは『覚悟』です」

彼女は相沢を真っ直ぐに見据えて言った。

「夫という恐怖を、私の人生から切り離すための、メスです」

相沢は言葉を失った。

手袋越しに感じていた「刺すような痛み」は、彼女にとっては「自分を支える強さ」だったのだ。

感情の成分分析など、所詮は他人の解釈に過ぎない。

その使い道を決めるのは、持ち主だけなのだ。

「……失礼いたしました」

相沢は深く頭を下げた。

「お気をつけて」

「ええ。戦ってきます」

女性は割れたスマートフォンをバッグにしまい、踵を返した。

その足取りは、カツ、カツと力強く床を鳴らし、迷いなく出口へと向かっていく。

彼女はもう、二度と暴力に屈しないだろう。

自動ドアが閉まる。

相沢は、冷え切った自分の指先をさすった。

小瓶がなくなっても、指先に残った冷たさはなかなか消えそうになかった。

(……覚悟、か)

相沢は自身の胸に手を当てる。

彼には、そこまでの熱量も、そこまでの冷徹な意志もない。

ただ、右から左へ、感情を流しているだけだ。

「成分分析は難しいな」

彼は小さく呟き、冷めたコーヒーを一口すすった。

苦味が、少しだけ彼の感覚を現実に引き戻した。

(第4話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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