連載小説『感情の忘れ物』 第4話 ~迷子の純真~

相沢は、カウンターの奥で頭を抱えていた。

偏頭痛ではない。目の前にある「それ」が、あまりにも騒がしいからだ。

今朝、京王井の頭線の車内で拾われたそのアクリルケースの中身は、ひと時もじっとしていなかった。

金平糖のような、あるいは極彩色のスーパーボールのような粒が、ケースの中でビュンビュンと飛び跳ねている。

耳を澄ますと、パチパチという炭酸が弾けるような音が聞こえてくるようだ。

相沢がおそるおそる手袋越しに触れる。

「うっ……」

指先に伝わるのは、強烈な「くすぐったさ」と、目が回るような回転エネルギー。

熱い。それも、焼けるような熱さではなく、真夏の日差しを浴びたアスファルトのような、無邪気で暴力的な熱気だ。

『拾得日時:〇月×日 午前八時十分』
『拾得場所:京王井の頭線(渋谷方面)2号車』
『品名:感情(活性型)』
『成分:純粋な好奇心、およびワクワク感』

相沢は日報を書く手もままならない。

文字がミミズのように踊ってしまう。

「……酔いそうだ」

彼は深くため息をつき、そのケースを物理的な忘れ物――筒状の万華鏡――の影に隠した。

相沢のように感情を閉ざした人間にとって、この手の「純度100%のポジティブ感情」は、猛毒にも等しい刺激物だった。

***


「翔太、ほら、挨拶して」

午後三時。母親に手を引かれてやってきたのは、七歳くらいの男の子だった。

名前は翔太というらしい。

しかし、その姿はあまりにも静かだった。

母親の後ろに隠れるように立ち、うつむいている。目は虚ろで、まるで電池の切れた玩具のようだ。

「すみません。この子が昨日、電車におもちゃを忘れてしまって……それからずっと、こんな調子なんです」

母親は心配そうに息子の頭を撫でた。

「いつもはうるさいくらい元気な子なんですけど、急に『つまんない』って言い出して、ご飯も食べなくて」

相沢は、隠しておいた万華鏡と、例のケースを取り出した。

「こちらですね」

万華鏡を見せても、翔太の反応は鈍い。

「……あ、うん。それ」

ボソリと呟くだけだ。

やはり、重要なのは「おもちゃ」そのものではない。それに付随していた「世界を楽しむ心」の方だ。

「お母様。こちらの手続きをお願いします」

相沢は母親に書類を書かせている間に、ケースを翔太の目の前に差し出した。

翔太の視線が、ケースの中で暴れまわる光の粒に吸い寄せられる。

「翔太くん。君の『ワクワク』も、一緒に落ちていましたよ」

相沢がケースの蓋を開けた、その時だった。

ポン! と音がしそうな勢いで、光の粒が弾け飛んだ。

相沢は思わずのけぞった。手袋をしていても、全身に静電気を浴びたような衝撃が走る。

光は一直線に翔太の胸へと飛び込んだ。

***


《 翔太の感覚 》

世界が、灰色から総天然色に塗り変わる。

つまらない。退屈だ。なんでみんな難しい顔をしてるんだろう。

そんな灰色の霧が、一瞬で吹き飛んだ。

あれは何? これはどうなってるの?

万華鏡の模様はどうして変わるの?

このお兄さんの手袋はなんで白いの?

この駅の天井のシミ、怪獣に見える!

胸の奥から、炭酸水が噴き出すようなエネルギーが湧き上がってくる。

じっとしてなんて、いられない!

***


「うわああああ!」

翔太が突然叫び声を上げ、万華鏡をひったくるように掴んだ。

そして、次の瞬間にはカウンターによじ登ろうとしていた。

「ねえねえ! お兄さん! これ見つかったの? どこにあったの?」

「座席の隙間です。降りてください」

「ねえ、なんで手袋してるの? 怪我してるの? 魔法使いなの?」

「業務規定です。近寄らないでください」

「ねえ、ここ何屋さん? 傘がいっぱいあるけど傘屋さん? 僕の傘もある?」

矢継ぎ早に繰り出される質問の嵐。

翔太の目はキラキラと輝き、頬は紅潮している。

さっきまでの「死んだ目」が嘘のようだ。

「こら、翔太! 静かにしなさい!」

母親が慌てて止めようとするが、翔太は止まらない。

センターの中を走り回り、他の忘れ物の棚を覗き込もうとする。

「すごい! 宝物庫だ!」

「触らないでください! それは他のお客様のものです!」

相沢はカウンターから身を乗り出し、必死で制止する。

しかし、翔太が発散する「楽しい!」「知りたい!」という感情の熱量が凄まじく、相沢の感覚器官をジャミングしてくる。

頭がクラクラする。

普段の冷静な仮面が剥がれそうになる。

「ねえお兄さん、笑ってよ! なんで怒ってるの?」

翔太が相沢の顔を覗き込む。

「怒ってはいません。これが、通常の、表情です」

相沢の声が裏返った。

ようやく母親が翔太を捕獲し、抱きかかえる。

「もう、すみません! 本当にすみません!」

母親は恐縮しているが、その目尻には涙が浮かんでいた。

「……でも、よかった。いつもの翔太に戻った」

「じゃあね! お兄さん、バイバイ! ありがとう魔法使い!」

翔太は母親に引きずられながら、最後まで手を振り、何かを叫び続けていた。

嵐のような親子が去り、自動ドアが閉まる。

***


シーン。

静寂が戻ったセンターに、時計の音だけが響く。

相沢は椅子に深く沈み込んでいた。

肩で息をしている。

まるでフルマラソンを走った後のような疲労感だった。

手袋を外して、冷たい机の天板に手のひらを押し付ける。

「……勘弁してくれ」

相沢は天井を仰いだ。

「昨日の『殺意』の方が、よほど静かでマシだった……」

彼はげっそりとした顔で、翔太が置いていった指紋だらけのカウンターを拭き始めた。

だが、その疲労の中には、不思議と嫌な感触は残っていなかった。

嵐が過ぎ去った後の空気は、いつもより少しだけ澄んでいる気がする。

ふと、彼は思い出す。

自分にも、あんなふうに「世界が輝いて見えた」時期があったのだろうか。

全てが不思議で、全てを知りたくて、感情を爆発させていた子供時代が。

記憶の霧は晴れない。

相沢は首を振り、再び白い手袋を嵌め直した。

彼の心は、まだ万華鏡のようには輝かない。

(第5話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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