その日の午後、忘れ物センターの自動ドアが開くと同時に、カツ、カツ、という軽快な足音が響いた。
人間の靴音ではない。硬い爪が床を叩く音だ。
「すみません、犬連れで……。でも、どうしてもここに来たくて」
リードを引いていたのは、四十代くらいの優しげな女性だった。
その横に、大型のラブラドール・レトリバーが静かに座っている。
毛並みは美しいクリーム色だが、口元には白いものが混じり、老いを感じさせる。
何より、その瞳がひどく寂しげで、地面ばかりを見ていた。
相沢はカウンターから身を乗り出した。
「盲導犬、ですか」
「ええ。先週、引退したばかりなんです」
女性は犬の頭を撫でた。
「名前はレオ。長年、目の不自由な方を支えてきたベテランです。お役目を終えて、我が家で余生を過ごすことになったんですが……」
女性は困ったように眉を下げた。
「うちに来てから、ずっと元気がないんです。ご飯もあまり食べないし、散歩に行ってもトボトボ歩くだけで。まるで、生きる気力を失くしてしまったみたいで」
相沢はレオを見た。
レオは「伏せ」をしたまま、深い溜息をついたように見えた。
その背中には、役目を奪われた者の哀愁が漂っている。
「昨日、散歩中にこの駅の通路を通ったとき、レオが何かを落としたような気がしたんです。……変な話ですけど」
「いいえ、変ではありませんよ」
相沢は奥の棚へ向かった。
「英雄にも、休息の仕方がわからない時はありますから」
***
相沢が取り出したのは、使い込まれて艶の出た、小さな革のパーツだった。
「これは、ハーネス(胴輪)の留め具の一部ですね」
「ああ、やっぱり。前のパートナーの方から頂いた記念品の中に、壊れたハーネスがあったんです。その匂いを嗅ぐのがレオの日課だったのに、無くなってしまって」
そして、相沢はその横に、少し大きめのアクリルケースを置いた。
中に入っているのは、オレンジ色の、ふわふわとした光の球体だ。
まるで冬の日の陽だまりを、そのまま切り取って詰め込んだような輝き。
相沢が手袋越しに触れる。
(……温かい)
思わず、相沢の表情が緩んだ。
人間の感情は、いつだって重く、複雑で、どこか生臭い。
だが、この感情には不純物が一切なかった。
ただひたすらに「誰かの役に立ちたい」「パートナーを守りたい」という、献身と愛情だけで構成されている。
触れているだけで、相沢の荒んだ神経が洗われていくようだ。森林浴をしているような、深い安らぎ。
『拾得日時:〇月×日 午後五時二十分』
『拾得場所:吉祥寺駅 南北自由通路』
『品名:感情(純粋型)』
『成分:使命感、誇り、および無償の愛』
「これが、レオくんの落とし物です」
相沢はケースを差し出した。
「彼は、ハーネスという『仕事道具』を失くしたことで、自分の『仕事への誇り』まで見失ってしまったのでしょう。もう自分は誰の役にも立たない、ただの老犬なんだと」
女性はハッとして、レオの顔を覗き込んだ。
「そんなことないのに。ただ、ゆっくりしてほしかっただけなのに……」
相沢はケースの蓋を開け、レオの鼻先に近づけた。
「レオくん。君の仕事は、まだ終わっていませんよ」
レオがのっそりと顔を上げ、鼻をひくつかせた。
その匂い――自分の魂の匂いを嗅ぎ取った瞬間。
レオの尻尾が、パタン、と床を叩いた。
***
《 レオの感覚 》
温かい光が、胸の中に満ちていく。
そうだ。僕は知っている。
交差点の信号の音。パートナーの頼りなげな手。それを導くハーネスの重み。
「グッド、レオ」と褒めてくれる声。
それが僕の全てだった。それが無くなって、僕は空っぽになったと思っていた。
でも、違う。
この温かさは、「仕事」だけじゃない。
僕が誰かを愛し、誰かに愛される喜びそのものだ。
ハーネスがなくても、僕は僕だ。
目の前にいる新しいお母さんも、僕を心配してくれている。
守らなきゃ。
今度は、仕事としてじゃなく、家族として。
***
「ワン!」
レオが短く、力強く吠えた。
立ち上がり、大きく身震いをする。
そして、嬉しそうに尻尾をブンブンと振り回し、女性の顔をペロペロと舐め始めた。
「わあ、レオ! くすぐったいよ!」
女性が涙目で笑う。
「ありがとう……。すごい、こんなに元気なレオ、初めて見ました」
レオは一通り女性に甘えた後、クルリと向き直り、カウンターの相沢に近づいた。
そして、相沢の手袋の匂いを嗅ぎ、ペロリと一舐めした。
ザラリとした舌の感触。
相沢は驚いたが、手袋を引っ込めなかった。
「……ありがとう、と言っているようです」
相沢が言うと、レオは満足げに「ハッ、ハッ」と息を吐き、女性の横にピタリと寄り添った。その立ち姿は、現役時代の凛々しさを取り戻していた。
「ありがとうございました。行こう、レオ」
「ワン!」
軽快な足音が遠ざかっていく。
その音は、来た時のような寂しいものではなく、未来へ向かう力強いリズムだった。
***
センターに静寂が戻る。
しかし、今日の静寂は、いつもより少しだけ温度が高い気がした。
相沢は、レオに舐められた手袋を見つめた。
いつもなら、業務が終わればすぐに新しい手袋に交換する。
他人の感情の残滓(ざんし)が、ノイズとなって彼を苦しめるからだ。
だが、今日はまだ、外したくなかった。
手袋に残る「陽だまり」の感覚が、相沢自身の凍てついた欠落を、少しだけ埋めてくれているような気がしたからだ。
彼はふと、棚の奥を見た。
「分類不能品」として並べられた、透明なガラスの感情たち。
いつもなら、主を求めてカタカタと微かに震えているそれらが、今日は静まり返っている。
「……君たちも、温かいのかい?」
相沢は誰にともなく問いかけた。
その時、一つの欠片が、夕日を受けて一瞬だけ、金色に光ったように見えた。
相沢は目を細め、深く息を吸い込んだ。
センターの中には、まだ微かに、犬の陽気な匂いが残っていた。
(第7話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

