雨の日だった。
吉祥寺の街全体が、灰色のヴェールに包まれている。
忘れ物センターの中も、今日はいつにも増して薄暗い。
カウンターの奥で、相沢は一つのアクリルケースを見つめていた。
中にあるのは、淡い茜色の光だ。
それは液体のようにゆらゆらと揺れ、決して波立つことなく、静かに底に沈殿している。
手袋越しに触れると、**「夕凪」**の海に手を浸したような感覚が伝わってくる。
熱くもなく、冷たくもない。
ただ、どこまでも深く、広く、そして泣きたくなるほど優しい。
『拾得日時:〇月×日 午前九時』
『拾得場所:吉祥寺駅 京王井の頭線ホーム エレベーター前』
『品名:感情(熟成型)』
『成分:感謝、および愛惜』
それは、長い年月をかけて醸成された、極上の古酒のような感情だった。
だが、相沢の表情は優れない。
なぜなら、この忘れ物には、もう「帰る場所」がないことを知っていたからだ。
***
午後四時。雨足が弱まった頃、一人の老婦人が訪れた。
喪服を着ている。手には数珠と、古びたハンドバッグ。
彼女は入り口で躊躇していたが、相沢が小さく会釈をすると、おずおずと歩み寄ってきた。
「あの……主人の、遺品を整理しておりましたら」
か細い声だった。
「手帳に、こちらの預かり証が挟まっておりまして」
相沢は無言で頷き、物理的な忘れ物を差し出した。
大学病院の診察券と、老眼鏡。
日付は、一ヶ月前。おそらく、闘病中の通院帰りに立ち寄った際に落としたものだろう。
「ああ、やっぱり。あの日、眼鏡を失くしたと騒いでおりましたから」
老婦人は懐かしそうに、そして寂しそうに眼鏡を撫でた。
「主人は、先週、息を引き取りました」
「……お悔やみ申し上げます」
相沢の言葉に、老婦人は力なく微笑んだ。
「無口で、不器用な人でした。最期まで、痛いとも、辛いとも言わず……私のことなど、どう思っていたのやら」
彼女の言葉の端々に、後悔が滲んでいる。
「私は、彼にとって良い妻だったのでしょうか。彼は、幸せだったのでしょうか」
それは、残された者が永遠に抱える問いだ。
死者はもう答えてくれない。
相沢は、茜色のケースを手に取った。
本来、忘れ物は本人に返却するのが原則だ。
持ち主のいない感情は、行き場を失い、やがて霧散するか、変質してしまう。
だが、この「夕凪」は、最期の瞬間まで、持ち主が抱えていた真実だ。
これを闇に葬ることは、相沢にはできなかった。
「奥様。本来はご本人以外にお渡しできないのですが」
相沢は静かに切り出した。
「旦那様は、眼鏡と一緒に、これを落とされていました」
相沢はケースをカウンターに置いた。
老婦人には、中身が見えない。ただの空のケースに見えているはずだ。
「これは……?」
「旦那様の『心』です」
老婦人は目を見開いた。
「主人の……」
「あなたには、直接触れることはできません。ですが、私が『通訳』することはできます」
相沢は手袋を外し、素手でケースに触れた。
一瞬のためらいの後、指先を沈める。
直接触れる「他人の感情」は、強烈な情報量となって相沢の脳内に流れ込む。
言葉ではない。映像と、匂いと、温度。
相沢は目を閉じ、それを受け止め、言葉に変換していく。
「……匂いがします」
相沢が呟く。
「甘い、卵焼きの匂いです」
老婦人がハッとして口元を押さえた。
「主人が、一番好きだった……」
相沢は続ける。
「夕暮れの台所。トントンという包丁の音。あなたは鼻歌を歌っている。……旦那様は、それを居間のソファから見ています」
相沢の声が、少し震える。感情の波が、彼の胸を打つからだ。
「『ありがとう』と言おうとして、喉まで出かかって、言えない。……言わなくても伝わっていると甘えて、結局飲み込んでしまう」
茜色の光が、相沢の言葉に合わせて明滅する。
「『すまない』。苦労ばかりかけた。『ありがとう』。俺の人生は、お前がいてくれて初めて完成した」
「……そして、『愛している』」
相沢は目を開けた。
そこには、相沢自身の言葉ではなく、故人の魂の言葉があった。
「……そう、言っています。心の底から、安らかな気持ちで」
「あなた……っ!」
老婦人はカウンターに突っ伏し、声を上げて泣いた。
「ばかな人……言ってくれなきゃ、わからないじゃない……!」
それは悲鳴のようだったが、その背中からは、憑き物が落ちたような安堵が感じられた。
長い間、彼女を縛り付けていた「不安」という鎖が、夫の「愛惜」によって溶かされたのだ。
***
しばらくして、老婦人は顔を上げた。
涙で濡れた顔は、来た時よりもずっと穏やかで、若々しく見えた。
「ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」
彼女は何度も頭を下げ、夫の眼鏡と診察券を大事そうに抱えて帰っていった。
茜色のケースは、役目を終えたかのように、中身が空になっていた。
持ち主の元へ帰ることはなかったが、届くべき場所へ、届いたのだ。
相沢は、再び手袋を嵌めた。
素手で触れた指先が、まだじんわりと熱い。
他人の愛の残滓が、皮膚にこびりついている。
「……間に合って、よかったですね」
相沢は誰にともなく呟いた。
その時だった。
カタタッ。
背後の棚で、硬質な音が響いた。
相沢が振り返ると、「分類不能品」の棚にある、透明なガラスの欠片たちが震えていた。
一つではない。十個、いや、それ以上。
それらは共鳴し合い、微かに光を放ち始めている。
相沢の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
(伝えられなかった想いは、こうして誰かが拾わなければ、永遠に彷徨う)
あの老婦人は幸運だった。
だが、自分はどうだ?
自分が過去に切り捨て、置き去りにしてきた「自分の言葉」「自分の感情」は?
あれらは、誰にも届くことなく、あの棚の中でずっと待っているのではないか?
何十年も。
亡霊のように。
「……静かにしてくれ」
相沢は懇願するように呟いた。
だが、欠片たちの震えは止まらない。
それはまるで、近づいてくる「限界」を知らせるカウントダウンのようだった。
相沢は逃げるように事務所の明かりを消した。
暗闇の中で、透明な欠片たちだけが、青白く、妖しく光り続けていた。
(第9話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

