夕暮れ時。茜色に染まるセンターに、一人の少年が現れた。
年齢は十歳か、十一歳くらいだろうか。
紺色のブレザーに、銀縁の眼鏡。背負っている塾のバッグは、石を入れたように重そうだ。
彼は子供らしくはしゃぐことも、不安そうにキョロキョロすることもない。
定規で引いた線の上を歩くように、真っ直ぐにカウンターへと近づいてきた。
「忘れ物の申請に来ました」
声変わり前の高い声だが、その口調はひどく事務的だった。
「携帯ゲーム機です。昨日、ホームのベンチに置き忘れました」
相沢は、少年の瞳を見た。
そこには、同年代の子供が持つべき「光」がない。
あるのは、冷徹な理性と、何かを諦めたような静けさだけだ。
それはまるで、鏡を見ているようだった。
かつての――自分の感情を殺した日の、相沢自身の姿に。
***
相沢は、黒い携帯ゲーム機をカウンターに出した。
「こちらですね」
「はい。ありがとうございます」
少年は表情一つ変えずに受け取ろうとする。
「お待ちください」
相沢は、その上に手を置いて止めた。
「もう一つ、お忘れ物がございます」
相沢が取り出したアクリルケースの中では、歪な形をしたガラス玉のような塊が、キリキリと音を立てて回転していた。
手袋越しに触れると、**「悲鳴」**が聞こえてくるようだ。
耳鳴りのような高周波。
圧縮され、押し殺され、今にも破裂しそうなエネルギー。
『拾得日時:〇月×日 午後四時十五分』
『拾得場所:吉祥寺駅 中央線快速ホーム ベンチ』
『品名:感情(抑制型)』
『成分:悔しさ、遊びたい欲求、甘え、および子供らしさ全般』
それは、大人の都合に合わせて「良い子」であろうとした少年が、邪魔になって切り捨てた本音の塊だった。
少年が怪訝そうに眉をひそめる。
「……何ですか、これ」
「お客様には見えていないかもしれません。ですが、私には見えます。これは、君自身が抱えきれなくなってこぼれ落ちた……子供らしい、とても大切な『心の一部』です」
相沢は、少年の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「私は、こういう行き場のない感情を預かる係も兼ねております。もし、これが君にとって不要な『重荷』だというなら、私が引き取ることも可能ですが……お受け取りなさいますね?」
「……それ、処分しておいてくれませんか」
少年は、その塊を一瞥して冷たく言った。
「いらないんです。それがあると、勉強の邪魔になるから」
「いらない、とは?」
「中学受験があるんです。偏差値を落とすわけにはいかない。ゲームも、遊びたい気持ちも、泣き言も、全部ノイズなんです」
少年は大人びた理屈を並べた。
それはあまりにも正論で、あまりにも悲しい武装だった。
相沢の胸が、ズキリと痛んだ。
彼はいつもなら、持ち主の意思を尊重する。
だが、今日だけは、どうしても引けなかった。
目の前の少年が、幼い頃の自分自身と重なって見えたからだ。
「……君は、それでいいのですか」
相沢の声に熱がこもる。
「これを捨てれば、君は効率的に勉強できるでしょう。親御さんも喜ぶかもしれない。でも、君の中の『子供』は死んでしまう。大人になってから取り戻そうとしても、もう手遅れになるんだぞ」
それは、遺失物係としての言葉ではなかった。
感情を捨てて生きてきた、一人の男の懺悔であり、警告だった。
しかし、少年は相沢を冷ややかな目で見上げた。
眼鏡の奥の瞳が、射抜くように相沢を捉える。
「手遅れって、何?」
少年は鼻で笑った。
「感情を持ってたら、幸せになれるの? 泣いたり怒ったりしてたら、勝ち組になれるわけ?」
そして、少年は決定的な言葉を放った。
「僕、おじさんみたいになりたくないんだ」
「……え?」
「そんな駅の隅っこの暗い部屋で、他人の落とし物を並べてるだけの、死んだような目の大人になりたくないんだよ!」
その言葉は、鋭利な刃物となって相沢の心臓をえぐった。
否定できない。
自分は、感情を捨てた成れの果てだ。
生きているのか死んでいるのかわからない、空っぽの器だ。
少年の言葉は正しい。
正しいが――だからこそ、認めるわけにはいかなかった。
「……受け取りなさい!」
相沢は叫んだ。
理性が飛んだ。
彼はカウンターから身を乗り出し、回転するガラス玉を少年の胸に押し付けた。
「やめろ!」
少年が抵抗するが、大人の力には敵わない。
ガラス玉が、少年の胸に沈み込む。
パリンッ。
何かが割れる音がした。
***
「う、うわあああああああ!」
少年の口から、絶叫がほとばしった。
膝から崩れ落ち、床を叩く。
「遊びたいよぉ! ゲームしたいよぉ! 辛いんだよ、眠いんだよぉ!」
理屈の堤防が決壊し、泥臭い感情が濁流となって溢れ出す。
「ママに褒められたいだけなのに! なんで僕ばっかり我慢しなきゃいけないんだよぉ!」
少年は顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫び、そして立ち上がった。
目の前にいる、自分に「余計なもの」を返した男を睨みつける。
「余計なことすんな!」
ドガッ。
少年の拳が、相沢の頬を殴りつけた。
子供の力だ。大したダメージではない。
だが、相沢はその衝撃でよろめき、床に手をついた。
殴られた頬が熱い。
痛い。
その痛みが、相沢に突きつけた。
「お前は救世主じゃない。ただのエゴイストだ」と。
少年はゲーム機をひったくり、泣きじゃくりながら出口へと走った。
「おじさんなんか、大っ嫌いだ!」
捨て台詞と共に、自動ドアが開く。
夕闇の中へ、泣き声だけが遠ざかっていった。
***
夜が来た。
閉店時間を過ぎたセンターは、死んだように静かだった。
相沢は、床に座り込んだまま動けずにいた。
頬の痛みは引いたが、胸の奥のざわめきが止まらない。
(僕は、あの少年を救いたかったんじゃない)
(あの頃の自分を、誰かに救って欲しかっただけだ)
結局、自分は何も変わっていない。
感情を取り扱うプロの顔をして、自分のコンプレックスを子供にぶつけただけだ。
「……最低だな」
相沢が自嘲気味に呟いた、その時だった。
キィィィィィン……。
耳鳴りのような音が、部屋の空気を震わせた。
一つではない。無数の音が重なり合い、不協和音となって響き渡る。
相沢はハッとして顔を上げた。
音源は、背後の棚。
「分類不能品」のラベルが貼られた、あの一角だ。
カタカタカタカタカタカタッ!
透明なアクリルケースたちが、狂ったように振動している。
十個、二十個、いや、棚にある全ての「透明な欠片」が。
これまで静かに眠っていた相沢の「忘れ物」たちが、今夜の出来事を引き金に、一斉に覚醒したのだ。
青白い光が、点滅を始める。
それはまるで、心拍数のように早くなり、激しくなっていく。
『こっちを見ろ』
『思い出せ』
『もう逃がさない』
光の明滅に合わせて、相沢の心臓が早鐘を打つ。
ドクン、ドクン、ドクン。
呼吸ができない。
棚からの引力が、強烈な磁場となって相沢を引き寄せる。
相沢は、恐怖に震える手で、床を這うように後ずさった。
だが、視線は外せない。
あの中に、自分がいる。
自分が殺して、捨てて、見ないふりをしてきた「相沢自身」がいる。
ガシャン!
一つのケースが振動に耐えきれず、床に落ちて割れた。
中からこぼれ落ちた透明な光が、床を這い、相沢の足元へと伸びてくる。
相沢は、観念したように息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
逃げる場所など、最初からどこにもなかったのだ。
「……僕の番だ」
相沢の呟きをかき消すように、全てのケースが強烈な光を放った。
吉祥寺駅の片隅で、誰にも知られない、たった一人の感情の爆発が始まろうとしていた。
(第10話 最終話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

