ガシャンッ!
破裂音と共に、棚のアクリルケースが一つ、また一つと弾け飛んだ。
床に散らばったのは、かつて相沢が「分類不能」として棚の奥に封印し続けてきた、無数の透明な欠片たちだ。
それらは意思を持った生き物のように、カシャカシャと硬質な音を立てて相沢の足元へとにじり寄る。
まるでダイヤモンドダストのように、センターの中に鋭利な光の渦が巻き起こる。
「くっ……うぅ……!」
相沢は頭を抱えてうずくまった。
耳を塞いでも無駄だ。これは鼓膜を震わせる音ではない。脳に直接響く、魂の共鳴音だ。
悲鳴。喚き声。忍び泣き。そして、狂ったような高笑い。
今まで彼が見ないふりをしてきた「自分の心」が、一斉に彼を責め立てていた。
『なんで捨てたの?』
『痛いのは嫌?』
『嬉しいことも、楽しいことも、全部いらないの?』
視界が歪む。
相沢の意識は、現在から引き剥がされ、遠い過去へと飛ばされた。
***
《 過去の記憶 》
吉祥寺駅のコンコース。
幼い相沢――まだ七歳の少年が、人混みの中で立ち尽くしている。
周囲を行き交う人々は、彼にとって恐怖の対象だった。
すれ違うだけで、流れ込んでくるのだ。
仕事に疲れたサラリーマンの鬱屈。
恋人に振られた女性の悲嘆。
誰かを妬む黒い炎。
『うるさい、うるさい、うるさい!』
少年の相沢は耳を塞いだ。
僕には関係ない。僕の痛みじゃない。
でも、誰も助けてくれない。この「共感覚」という呪いは、誰にも理解されない。
痛みを感じ続けるくらいなら、何も感じないほうがいい。
心なんて、ただの受信機だ。スイッチを切ってしまえばいい。
少年は強く念じた。
心の扉を閉じるイメージ。
自分の中に湧き上がる感情も、外から入ってくる感情も、全部まとめて「瓶」に詰めて、棚の奥に隠してしまうイメージ。
その瞬間、世界は静寂に包まれた。
痛みは消えた。
けれど同時に、夕焼けの美しさも、母の手の温もりも、何も感じなくなった。
そうして彼は、白い手袋をした「相沢」になったのだ。
***
「……思い、出した……」
床に突っ伏したまま、相沢は呻いた。
足元には、透明な感情たちが波のように押し寄せている。
それらは冷たくもあり、焼けるように熱くもある。
相沢は恐怖した。
これを受け入れれば、またあの「地獄のような雑音」の世界に戻ってしまう。
やっと手に入れた静寂が、平穏な日常が、壊れてしまう。
逃げたい。拒絶したい。
だが、その時。
脳裏に、これまで出会ってきた人々の顔が浮かんだ。
『不安』ごと娘を抱きしめた、父親の佐々木。
『諦め』を受け入れて、新しい道を選んだバンドマン。
『殺意』という名の覚悟を決めた主婦。
『絶望』という痛みを取り戻して、泣き叫んだ夫。
彼らは皆、傷つくことを恐れずに、自分の感情を持ち帰った。
痛みも、苦しみも、自分の一部だと認めて、生きていくことを選んだ。
「……僕だけが、安全な場所にいるわけにはいかないな」
相沢は震える体を起こした。
そして、自分の両手を見る。
自分を守り続けてきた、真っ白な絶縁体。
相沢は、右手の指先で、左手の手袋の端を掴んだ。
躊躇いはあった。
だが、あの少年の言葉が背中を押した。
『死んだような目の大人になりたくない』
「……ああ、なりたくないさ」
スッ。
相沢は手袋を引き抜いた。
白い布が床に落ちる。
露わになった素手が、空気に触れる。
彼は覚悟を決めて、足元に広がる鋭利な光の破片へ、その手を伸ばした。
ガリッ。
相沢の手のひらが、ガラスの山を鷲掴みにした。
「ぐ、あああああああッ!」
相沢は絶叫した。
皮膚が切れる。痛い。
血が滲む。 苦しい。
だが、その瞬間だった。
相沢の体温に触れたガラスの欠片たちが、ジュワリと音を立てて融解した。
鋭利だった凶器が、温かい光の液体へと変わり、傷口から血管の中へと強引に流れ込んでくる。
赤、青、金、黒、銀。 あらゆる色彩が混じり合い、強烈な熱量となって相沢の全身を貫く。
痛い。苦しい。悲しい。寂しい。悔しい。腹が立つ。情けない。
けれど、それ以上に――。
愛おしい。
嬉しい。
楽しい。
生きたい。
三十年分の感情が、空っぽだった器に満たされていく。
血管の一本一本に、熱い血が通っていく感覚。
心臓が、早鐘を打つどころではない。破裂しそうなほど強く、大きく脈動している。
「はっ、はぁ、はぁ……ッ!」
相沢は床に仰向けに倒れ込んだ。
目から涙が止まらない。
口元は笑っているのに、声は嗚咽している。
嵐のような感情の奔流に揉まれながら、彼は生の実感を噛み締めていた。
今まで「透明」に見えていたのは、自分自身がそれを見ようとしなかったからだ。
こんなにも鮮やかで、こんなにも騒がしい色が、自分の中にはあったのだ。
相沢は天井を見上げ、涙で滲む視界の中で呟いた。
「……おかえり」
散らばっていた残りの欠片たちも、相沢の涙に呼応するようにふわりと浮き上がり、光の粉となって相沢の胸の中へと吸い込まれていく。
センターの中に、静寂が戻ってきた。
だが、それは以前のような「死んだ静寂」ではない。
嵐が去った後の、清々しく、生命の予感に満ちた静けさだった。
***
翌朝。
台風一過のような青空が、吉祥寺の街に広がっていた。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開き、一人の若い女性が駆け込んできた。
「すみません! さっき、定期券を落としてしまって!」
カウンターの中にいた相沢は、ゆっくりと立ち上がった。
その手には、もう白い手袋はない。
素手の指先には、小さな絆創膏がいくつも貼られている。
昨夜、鋭利な「自分の心」を鷲掴みにした際の名誉の負傷だ。
相沢は端末を操作し、定期券を見つけ出すと、カウンターに差し出した。
「こちらですね」
「ああ、よかった! ありがとうございます!」
女性は定期券を受け取り、そしてふと、相沢の顔を見て立ち止まった。
「……あの、何かいいことありました?」
「え?」
「駅員さん、すごくいい顔してるから」
相沢はきょとんとして、それから自分の頬に手を当てた。
指先に伝わる体温は、温かい。
そして、胸の奥には、さざ波のような感情が常に揺らめいている。
少しうるさいけれど、悪くない気分だ。
相沢は、女性に向かって微笑んだ。
それは業務用の作り笑いではない。
目尻が下がり、口角が自然に上がる、一人の人間としての笑顔だった。
「ええ。……長年の探し物が、見つかったんです」
女性がつられて笑顔になり、会釈をして出て行く。
「行ってらっしゃいませ」
相沢の声は、弾んでいた。
カチ、コチ、カチ、コチ。
壁掛け時計が時を刻む。
その音はもう、無機質なリズムではない。
相沢の心臓の鼓動と重なり合い、新しい時間を刻み始めていた。
***
ここは、吉祥寺駅北口、遺失物取扱センター。
傘も、財布も、そして迷子の感情も。
失くしたものが、必ず持ち主の元へ帰る場所。
今日もまた、誰かの大切な「忘れ物」が、この扉を叩くのだろう。
相沢は素手のまま、新しい日報のページを開いた。
(完)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
Next Season…
連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』
次なる舞台は、欲望と絶望が渦巻く世界最大の迷宮――新宿駅。
他人の感情が「騒音」として聞こえる係員の須藤 陸(すどう・りく)。
彼にとって、落とし物にへばりつく感情はすべてただの「ゴミ」だった。
都市の底で蠢(うごめ)く巨大なバケモノ《黒い霧》に出会うまでは――。
不機嫌な男の、ヘッドホン越しの孤独な戦い。お楽しみに!

