午前7時00分。
目覚まし時計が鳴るコンマ1秒前に、私は目を開けた。
窓の外は、いつもの灰色の雨。この街特有の、オイルと鉄錆(てつさび)が混じった匂いが窓の隙間から忍び込んでくる。
私はベッドから起き上がり、皺(しわ)ひとつないシャツに袖を通す。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。抽出温度は82度。抽出時間は3分ジャスト。
これが私の「規律(ルーチン)」だ。
1ミリの狂いもなく整えられた秩序だけが、私の心を安定させてくれる。
私は「記憶の金庫番(キーパー)」だ。
企業の機密データや、政治家の裏帳簿。クラウド上には置けない危険な情報を、一時的にこの脳内の記憶領域に保管し、指定された場所へ届ける。
私には、過去の記憶がない。
3年前より前のことが、まるで空白のように思い出せないのだ。
だが、私はそれを不便だとは思っていない。むしろ好都合だ。過去がなければ、後悔することもないからだ。
感情を必要としないこの仕事は、そんな空っぽの私に合っていた。
コーヒーを飲みながら、私はふと、昨日行った定期検診のことを思い出した。
『調子はどう? 「私」さん』
街外れの古い診療所。
白衣を着た医師、ミナは、いつものように優しく微笑んで私のデータをチェックしていた。
彼女は、記憶の保管による脳への負荷をケアしてくれる、私の専属医だ。
『数値は安定しているわ。……でも、少し脈が速いかも』
彼女の冷たい指先が、私の手首に触れた時だ。
ドクン。
胸の奥で、小さなノイズが走った。心拍数が、平均値より12%上昇する。
これはシステムのエラーだ。あるいは、「恋」と呼ばれるバグかもしれない。
私は彼女の笑顔を見るたびに、胸が締め付けられるような不思議な感覚を覚える。
だが、私はそれを口にはしない。
私は金庫番だ。金庫が医者に恋をするなんて、非合理的すぎる。
「……今日も、完璧だ」
私は思考を打ち切り、コーヒーカップを置いた。
部屋を見渡す。本棚の背表紙は高さ順に並び、床には埃(ほこり)ひとつ落ちていない。
この静寂こそが、私の世界だ。
その時だった。
バン! バン!
ドアが乱暴に叩かれた。予約していた客だ。
「どうぞ。鍵は開いています」
転がり込んできたのは、レインコートを着た小柄な男だった。
彼はひどく怯(おび)えていた。ずぶ濡れの髪から雫を垂らし、まるで幽霊にでも追われているような目つきで私を見た。
私と目が合うと、男は一瞬、ハッとして言葉を詰まらせた。
何かを言いかけて、ぐっと飲み込むような奇妙な間(ま)。
「……あ、あんたが。『金庫番』……なのか?」
「そうです。お座りください」
「座ってる時間はねえ!」
男は震える手で懐(ふところ)を探り、テーブルの上に「それ」を叩きつけた。
黒く光る、見たことのない規格のメモリーチップだった。
端子の数が異常に多く、禍々(まがまが)しいほどの光沢を放っている。
「頼む……これを、預かってくれ!」
私は眉をひそめ、いつもの業務通り、事務的に応対した。
「……承知しました。それではデータを転送しますので、しばらくお待ちください。脳内の記憶領域にコピーした後は、このチップ自体は物理破壊でよろしいですね?」
それが最も安全で、確実な手順だ。証拠を残さないためには、元メディアを破壊するのが鉄則だからだ。
だが、男は血相を変えて叫んだ。
「馬鹿野郎! 時間がない! それにこいつは特殊な『鍵』なんだ。コピーじゃ意味がねえ!」
「鍵……?」
「頭に直刺し(マウント)したまま運んでくれ! あんたの脳波のノイズが無いと、すぐに見つかっちまうんだよ!」
なるほど。
「生体迷彩(バイオ・カモフラージュ)」か。
人間の脳が生み出す複雑な電気信号(ノイズ)の中に隠さなければ、持ち出せないほどの危険物。
そして、コピー不可のハードウェア・キー。
事情は理解した。
私は男の目をじっと見た。
その瞳の奥には、恐怖だけではない、何かに縋(すが)るような必死な光があった。
「……危険物の確認を。爆発物やウイルスではないですね?」
男は一瞬、泣きそうな顔で笑った気がした。
「……違う。これは『希望』だ」
「あんたなら……守れるはずだ」
「……わかりました。契約成立です」
私は事務的に頷き、首筋の髪をかき上げた。
うなじの下には、脳へ直結する接続端子(ポート)がある。
私はチップを手に取り、迷うことなく差し込んだ。
カチリ。
硬質な音が、骨を伝って響く。
その瞬間だった。
ドクンッ!!
心臓を、内側から鷲掴みにされたような衝撃が走った。
「ぐ、あ……ッ!?」
視界が歪む。
首筋から、灼熱の鉛(なまり)を流し込まれたような激痛。
ただのデータ保管のはずだ。なのに、このチップは私の脳のシステムそのものを食い破ろうとしている。
(……てえな)
幻聴?
いや、違う。
(痛えな、クソッ……! おい、誰か電気をつけろ! 暗くて何も見えねえぞ!)
私の頭の中で、野太い男の声が響いた。
それは私の思考ではない。明らかに「他人」の声だった。
私は膝をつき、脂汗を流しながら依頼人を見上げた。
「な、なんだ……これは……」
男は、苦しむ私を見て、悲痛な顔で呟いた。
「すまねえ……。だが、これでやっと『鍵』が届いた……」
「鍵……?」
その時、遠くでサイレンの音が聞こえた。
男は弾かれたようにドアの方を振り返った。
「チッ、もう嗅ぎつけやがったか!」
男は脱兎(だっと)のごとく駆け出した。
「頼んだぞ! 3日後、街外れの『ミナ診療所』のところへ届けてくれ! 彼女なら……彼女なら、これが何かわかるはずだ!」
ミナ?
なぜそこで、あの主治医の名前が出る?
「待て! おい!」
私の制止も聞かず、男は雨の中へ消えていった。
開けっ放しのドアから、湿った風が吹き込んでくる。
私はふらつく足で立ち上がり、ドアを閉めた。
手が震えている。
(おい、聞こえてんだろ。無視すんなよ)
まただ。
脳内の声が、さっきより鮮明になっている。
「誰だ……。私の脳回線にハッキングしているのは誰だ!」
私は誰もいない部屋に向かって叫んだ。
(ハッキングだァ? 何を寝ぼけたこと言ってやがる。……ここは俺の体だ)
「何を……」
(ったく、体が鉛のように重てえな。おい優等生、コーヒー淹れろ。深煎りのやつだ。泥水みたいな薄いのは淹れるなよ?)
「……私の脳から出ていけ」
(ハッ。ここは『俺』の家だ。家賃も払わねえで居座ってんのは、どっちだ?)
私の右手が、勝手に動いた。
意思とは無関係に、飲みかけのコーヒーカップを握り潰す。
ガシャン!
破片が飛び散り、完璧に掃除された床に黒いシミが広がっていく。
私の完璧な日常は、この瞬間、音を立てて崩れ去った。
(第2章へつづく)

