1.二つの心、一つの体
依頼人が去ってから数時間が経過した。
雨はまだ降り止まない。
私はソファにうずくまり、頭を抱えていた。
チップを抜こうとしたが、駄目だった。
抜こうと腕を上げると、脳が焼き切れるような激痛が走り、強制的に動作をキャンセルさせられる。
まるで、チップが私の体の一部になろうとしているかのように。
(おい、暇だな。テレビでもつけろよ)
頭の中の声――『彼』はずっと喋り続けている。
名前はレンと言うらしい。
「黙ってくれ。思考のノイズになる」
私はこめかみを押さえた。
(つれないねえ。せっかく3年ぶりにシャバの空気を吸えたってのに)
「3年ぶり……? 君は刑務所にでもいたのか」
(似たようなもんだ。暗くて狭い、データの檻(おり)の中さ)
その時、携帯電話が鳴った。
登録のない番号だ。
「……はい」
『――契約の履行状況を確認したい』
機械的に加工された、冷たい声だった。
『我々は「エーテル」。そのチップの正当な所有者だ』
エーテル社。
この国を影で支配すると言われる、巨大製薬企業。
なぜそんな組織が、私ごときに関わってくる?
「所有権を主張するなら、正規の手続きを……」
『警告する。そのチップは我々の重要な「資産」だ。ただちに返却せよ。さもなくば――』
ズドンッ!!
轟音(ごうおん)と共に、アパートの壁が吹き飛んだ。
爆風が私を吹き飛ばし、部屋の家具が粉々になって舞い上がる。
「がはっ……!?」
私は壁に叩きつけられた。
耳鳴りがする。天井から瓦礫(がれき)が降ってくる。
壁の大穴から、武装した兵士たちがラペリング降下してくるのが見えた。
赤いレーザーサイトの光が、埃(ほこり)の舞う部屋の中で交錯し、私の眉間に集まる。
「目標発見。確保する」
嘘だろ。
いきなりミサイルを撃ち込んでくるなんて、常軌を逸している。
私は動こうとしたが、恐怖で体が痺れて動かない。
殺される。
私の人生は、ここで終わるのか。
(立て!!)
脳内で怒号が響いた。
それは、私の恐怖を吹き飛ばすほどの、強烈な「怒り」だった。
(ボサッとしてんじゃねえ! 殺されるぞ!!)
「だ、だが……足が……」
(貸せ! 俺がやる!!)
その瞬間、私の意識が後ろに弾き飛ばされた。
操り人形の糸を、強引に奪い取られたような感覚。
「うおおおおッ!!」
私の口が、野獣のような咆哮(ほうこう)を上げた。
体はバネのように跳躍し、一番近くにいた兵士の懐(ふところ)へ飛び込む。
思考するよりも速い。
私の右拳が、兵士のヘルメットごと顔面を粉砕していた。
「なっ……!?」
「速い! なんだこいつは!」
兵士たちが狼狽(うろた)える。
私も狼狽えていた。
私は戦闘訓練など受けていない。喧嘩すらしたことがない。
なのに、この体は戦い方を知っている。
銃口の向き、筋肉の動き、殺気。すべてを皮膚感覚で捉え、最適解を繰り出している。
(オラオラどうした! 3年ぶりの運動にしちゃあ、ヌルいぜ!!)
私が殴り、私が蹴り、私が笑う。
それは私であって、私ではない。
私は自分の体の中で、傍観者として震えていた。
こいつは一体何なんだ。
なぜ戦闘のプロなんだ。
そして――なぜこの動きに、これほどまでの「懐かしさ」を感じるんだ?
2.導かれる場所
(逃げるぞ!)
私の体は、窓ガラスを背中で突き破り、雨の降りしきる路地裏へと飛び出した。
3階からの落下。通常なら足の骨が折れる高さだ。
だが、この体は空中で猫のように身をひねり、室外機を足場にして衝撃を殺し、音もなく着地した。
「……信じられない」
私の口から、恐怖に震える声が漏れる。これは私の言葉だ。
(へッ、鈍(なま)ってやがるな。家具の心配をしてる場合か、走れ!)
「走れと言われても……私はどこへ行けばいいのかわからない!」
(体(オレ)に任せろ。足が覚えてる)
レンの意思が、再び私の運動野をジャックする。
私の足は、私の思考よりも先に動き出した。
複雑に入り組んだ路地裏を、迷うことなく疾走する。
ここはスラム街との境界線だ。潔癖症の私は、こんな汚れて入り組んだ裏道など、一度も通ったことはないはずだ。
なのに、どの角を曲がればいいか、どのフェンスなら乗り越えられるか、私の脳は「知っている」。
「どこへ行くつもりだ」
私は走りながら問うた。
(決まってんだろ! ミナのところだ!)
ミナ。
その名前を聞いた瞬間、私の胸の奥がズキリと痛んだ。
これは私の恋心か?
それとも、彼(レン)の想いか?
(あいつが待ってる。……俺は、あいつに会うために戻ってきたんだ)
レンの声は、先ほどまでの乱暴さが消え、切実な響きを帯びていた。
私の足は止まらない。
雨に濡れた坂道を駆け上がり、見慣れた看板の前で立ち止まる。
『ミナ診療所』。
ドアノブに手をかける。
手が震えている。これは私の恐怖か、それともレンの緊張か。
「……開けるぞ」
私はドアを開けた。
消毒液と、古い紙の匂い。
奥の処置室から、白衣を着た彼女が顔を出した。
「あら、『私』さん? 今日は予約の日じゃ……」
彼女はいつものように穏やかに微笑みかけたが、私のボロボロの服と血の滲む額を見て、表情を一変させた。
「大変! 怪我をしてるじゃない。すぐに座って!」
彼女は駆け寄り、医師の顔で私の腕を取ろうとした。
その温もりに触れた瞬間、私の奥底から何かが溢れ出した。
「……ミナ! 逃げろ! 奴らが来る!」
私の口が、勝手に叫んでいた。
私の声ではない。もっと低く、力強い、彼女だけが知る声で。
ミナの動きが止まった。
彼女は目を見開き、信じられないものを見るように、私の顔を凝視した。
その瞳が揺れ、みるみるうちに涙が溢れてくる。
「その声……まさか、レン?」
「……ああ。待たせたな」
私の口が紡いだその言葉に、彼女は崩れ落ちるように私の胸に飛び込んできた。
「レン……ッ! 意識が戻ったのね!」
彼女の華奢な体が、私の腕の中で震えている。
胸が苦しい。張り裂けそうだ。
私はずっと、彼女に恋をしていた。
でも彼女が今抱きしめているのは、私ではない。「彼」だ。
「……急ごう。追手が来る」
私は自分を押し殺し、彼女の手を引いた。
「地下へ。……すべてを話してくれ」
(第3章へつづく)

