長編SF小説『僕らが溶け合う境界線』第4章 ~消失の計算式~

1.唯一の弱点

ガガガガッ!!

地下水道の湿った空気を、乾いた銃声が引き裂いた。

鼓膜を揺らす轟音。鼻を突く硝煙(しょうえん)の臭い。

かつて静寂を愛した私の世界は、今や鉄と火薬の嵐の中にあった。

「右だ! 3時の方向! 回り込まれるぞ!」

私が叫ぶ。

眼鏡のレンズ越しに捉えた敵影は、暗視ゴーグルを装着した重装備の特殊部隊だ。その動きは洗練されており、無駄がない。

(チッ、わかってらぁ!)

私の脳内で、レンの声が荒々しく響く。

私の思考が「回避ルート」を算出するよりも早く、私の肉体が反応していた。

泥水をごろりと転がり、コンクリートの支柱の陰に滑り込む。直後、私のいた場所を無数の弾丸が削り取っていく。

「ハァ、ハァ……!」

私は荒い息を吐き、無意識に腰に手をやって残弾数を確認する。

……ない。武器など最初からない。あるのはこの体一つと、二つの精神だけだ。

「包囲されている。敵の数、推定20。こちらの生存確率は……」

「ゼロだ」と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。

隣で震えるミナが、必死に涙を堪えて私を見つめているからだ。

その時だった。敵の指揮官らしき男の声が、坑道に響き渡った。

「――おい! 頭部は狙うな! 手足を狙え!」

「しかし隊長、ターゲットの抵抗が激しく……」

「馬鹿野郎! あのチップは『オリジナル』だぞ! 唯一無二の資産なんだ! 傷一つつけてみろ、我々の10年が全て水泡に帰すぞ!!」

その怒号を聞いた瞬間。

極限状態にあった私の脳内で、散らばっていたパズルのピースがカチリと嵌(は)まった。

(……オリジナル? 唯一無二?)

私の論理回路(ロジック)が高速で回転を始める。

彼らはなぜ、圧倒的な火力を持ちながら、手榴弾一つ投げ込んでこないのか。

なぜ、執拗に手足ばかりを狙い、私を生け捕りにしようとするのか。

答えは明白だ。

私の首に埋まっているチップ。それは、単なる「不正の証拠」ではない。

彼らが巨額の資金と時間を費やして生み出した、絶対に失うことのできない「原本(マスターデータ)」なのだ。

(なるほど。……それが、お前たちの弱点か)

私は口元を歪めた。

彼らは私を殺せない。

私が「自壊」するリスクがある限り、彼らは最後の一線を越えてこない。

ならば――勝機はある。

「ミナ」

私は、隣にいる彼女の肩を強く抱いた。

「走れるか」

「え……?」

「突破口を開く。君は全速力で出口へ向かえ」

「待って! あなたはどうするの!? 無理よ、これだけの数を相手に……」

「無理ではない。……計算式を変えればいいだけだ」

私は静かに、けれど決然と言った。

そして、意識の深淵に潜む「彼」に語りかけた。

「レン。聞こえるか」

(……ああ。嫌な予感がするぜ、優等生)

「私の持っている『脳の制御リミッター』を外す。筋肉の出力、神経伝達速度、すべてを生物学的限界まで引き上げる」

(おい、正気か!? そんなことをしたら、お前の人格プログラム(システム)が保たねえぞ! 脳が焼き切れて……お前は消滅する!)

「構わない」

私は即答した。迷いはなかった。

「私は『金庫番』だ。契約を守り、荷物を届けるのが仕事だ。……君という『本人』と、君が命懸けで守ろうとした『彼女』を、無事に明日へ送り届ける。それが私の最後のミッションだ」

(……お前)

「それに……」

私はふと、表情を崩して笑った。

それは、私が生まれて初めて見せる、計算外の笑顔だったかもしれない。

「私は偽物かもしれないが、この胸の痛みだけは本物だったようだ。……彼女を、愛していたよ」

一瞬の沈黙。

そして、レンの声が脳内に轟いた。力強く、そして震える声で。

(……へッ。キザな野郎だ。……わかったよ。その命、俺が預かる。……行くぞ、相棒!!)

「ああ、行こう!!」

私は脳内の安全装置(セーフティ)に手をかけ、一気に引き下げた。

《警告:限界解除。システム崩壊まで、あと30秒です

赤い警告文字が視界を埋め尽くす。

瞬間、世界の色が変わった。

2.境界線の消失

ドクンッ!!!!

心臓が破裂しそうなほど脈打つ。

血液が沸騰し、血管の中を溶岩が流れているようだ。

筋肉繊維が悲鳴を上げ、脳神経がスパークする。

だが、体は軽い。

羽が生えたように軽い。

「うおおおおおおッ!!」

私は飛び出した。

敵が反応するよりも速く、私は疾風となって戦場を駆ける。

「なっ、なんだコイツは!?」

「速すぎる! 照準が追いつかない!」

銃弾? 遅い。

今の私には、弾道が白い線となって見える。

首を最小限に傾け、紙一重でかわす。

踏み込み、一撃。

充血した拳が、強化プラスチックの盾ごと敵を吹き飛ばす。

1人、3人、5人。

敵がゴミのように舞う。

道が開く。

「ミナ! 行けぇぇッ!!」

私は喉が裂けんばかりに叫んだ。

ミナが振り返る。

彼女は泣いていた。

わかっているのだ。これが今生の別れだと。

「『私』さん……ッ!」

「走れ!! 振り返るな!!」

彼女は唇を噛み締め、背を向けて走り出した。

それでいい。

君の背中を守るために、私はここに生まれたのだから。

《警告:システム損壊率90%。強制シャットダウンを開始します》

視界が、白く染まっていく。

手足の感覚が消えていく。

痛みすら、遠のいていく。

ああ、これが「消える」ということか。

不思議と恐怖はない。

ただ、少しだけ寂しい。

明日の朝、あの完璧な温度で淹れたコーヒーを、もう飲めないことが。

私の 輪郭が 溶けていく。

私が 俺に なり 俺が 私に なる。

(幸せになれよ、ミナ)

(あとは頼んだぞ、レン)

白い光の中で、私は最後に、自分の意思で笑った。

プツン。

世界から、音が消えた。

(最終章へつづく)