長編SF小説『僕らが溶け合う境界線』第5章(最終章)~リブート~

1.空白の揺り籠

……。

…………。

白い。

どこまでも、白い。

僕は、ここにいる。

でも、「ここ」がどこなのかはわからない。

上も下もなくて、時間もここにはないみたい。

まるで、あったかいお水の中に浮かんでいるような感じだ。

僕は、だれだろう。

名前を思い出そうとしても、うまく出てこない。

ただ、二つの思い出が、小さな光のつぶになって、僕のまわりをふわふわしてる。

一つは、はげしい雨の思い出。

怒ったり、熱くなったり、誰かを一生懸命に愛した思い出。

もう一つは、静かな朝の思い出。

コーヒーの匂いと、きれいな部屋と、誰かをこっそり好きだった思い出。

反対の二つの色は、まざらないけれど、仲良くとなりで光ってる。

キラキラしてて、なんだか懐かしい。

「……起きて」

遠くから、声が聞こえた。

鈴を転がしたような、泣き声がまじった、だいすきな声。

「……お願い、戻ってきて」

光の向こうから、温かい手が伸びてくる。

その手は、僕のことを優しく撫でてくれた。

気がつくと、僕はベッドの上に座っていた。

ううん、座っているような気がしただけかも。

目の前には、髪の長い女の人がいる。

彼女は泣いている。でも、大丈夫だよって言うみたいに笑っている。

「……あ、なた……は……?」

僕の口から、たどたどしい言葉がこぼれる。

女の人は何も言わず、僕の手にある黒く焦げたチップを、そっと撫でた。

それは、ついさっきまで僕の首にあったものだ。

誰かが、命を燃やして僕を守ってくれた、大切なもの。

「ありがとうね、『私』さん。……お疲れ様」

女の人はその焦げたチップを、宝物みたいに大事にトレイに置いた。

女の人は、胸のところから、銀色のキラキラしたものを出した。

パカッて蓋を開けると、中には傷ひとつない、きれいなチップが青白く光ってる。

まるで、星のかけらみたい。

女の人はチップをそっと取り出して、僕の首筋にある空っぽの穴へ近づける。

「おかえりなさい。……私の愛しい人」

「……あたた、かい……」

僕が呟くと同時に。

カチリ。

小さな音が、世界のスイッチを入れた。

2.融合

その瞬間。

温かい光が、僕の中へ流れ込んでくる。

それは、乾いた砂に水が染み込むみたいに。

色が、音が、匂いが、気持ちが、僕という器を満たしていく。

痛み。

3年分のひとりぼっち。

裏切られた怒り。

それでも消えなかった希望。

そして――

毎朝のコーヒーの味。

きれいに並んだ本棚。

彼女の笑顔を見た時の、胸がギュッとなるような切なさ。

「彼」が生きた時間のすべてが、僕の中に溶け込んでくる。

イヤじゃない。

それはまるで、離れ離れになっていた半身が、あるべき場所に戻るような感じ。

……マスターデータ認証、完了。
……セキュリティロック、解除。
……人格データ、統合(マージ)を開始します。

頭の奥で、二つの光が一つになる。

荒々しい「俺」と、静かな「私」。

境界線が消えて、混ざり合って、新しい「僕」が生まれる。

「……スゥーーーッ」

僕は深く、深く、息を吸い込んだ。

胸いっぱいに広がる空気の味が、生きていることを教えてくれた。

爽快で、大きくて、そして静かな、再生の呼吸だった。

3.二人の朝、一つの色

一週間後。

雨上がりの朝。

俺はキッチンに立ち、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。

お湯の温度は82度。

抽出時間は3分ジャスト。

コポコポと音を立てて落ちる黒い液体を見つめながら、俺はふと口元を緩める。

昔の俺なら、こんな面倒なことはしなかった。

インスタントで十分、カフェインさえ摂れれば味なんてどうでもいい。そう思っていたはずだ。

「……いい香り」

背後から、ミナが起きてきた。

俺はカップを二つ用意し、彼女に手渡す。

「ああ。……あいつのやり方を引き継いでみたんだ。泥水みてえだと思ってたが、意外と悪くない」

ミナは一口啜(すす)り、嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「ええ。……とても優しい味がする」

エーテル社の悪事は、俺の脳に焼き付いていた「マスターデータ」によって全て暴かれた。

俺たちが公表したデータは決定的な証拠となり、警察と監査のメスが入った。幹部は逮捕され、組織は事実上の解体に追い込まれた。

俺たちはもう、逃げる必要はない。

俺はソファに座り、テーブルの上を見る。

ペンは直角に。メモ帳は定位置に。

無意識のうちに、俺はテーブルの上を完璧に整理整頓していた。

胸の奥が、じんわりと温かい。

あいつは消えた。

「私」という人格プログラムは、役割を終えてシステムから消滅した。

俺の首筋のポートには、今はミナが持っていたバックアップチップだけが収まっている。

だが、あいつは確かに、ここにいる。

この几帳面さも、コーヒーのこだわりも、ふとした瞬間に頭をよぎる冷静な計算も。

すべては、あいつが俺の脳に刻み込んでくれた「生きた証」だ。

俺たちは溶け合ったのだ。

境界線なんて、最初から必要なかったのかもしれない。

「……ありがとな」

俺は誰に言うともなく、小さく呟いた。

首筋のポートを指で撫でる。そこにはもう何の重みもないけれど、確かに「相棒」が背中を預けてくれた温もりが残っていた。

「さてと、仕事の時間だ」

「無理しちゃだめよ?」

「わかってる。……俺は一人じゃないからな」

俺はコートを羽織り、襟(えり)を立てた。

窓の外は、突き抜けるような青空。

新しい一日が、始まろうとしていた。

(完)


【新シリーズ・エピソード ゼロ File.01へつづく】
全ての始まり。『私』の起源。僕らが溶け合う境界線 エピソードゼロ File.01
本編から3年前。雨の降りしきる診療所で、記憶を失った一人の男が目を覚ます。彼の名はまだない。医師ミナとの出会い、そして完璧主義者である人格『私』はいかにして形成されたのか。物語の原点を描くエピソードゼロ。新シリーズをお楽しみに。