長編SF小説『僕らが溶け合う境界線 エピソード ゼロ』File.02 ~野良犬の遺書~

―― レンの残したメモ ――

日付: X年 10月 7日 土砂降り
場所: スラム街 第4エリア 安宿「ストレイ・ドッグ」

窓の外はひどい雨だ。

明日、俺は死ぬかもしれない。いや、生きて戻るつもりだが、相手が相手だ。

「エーテル社」。この街を牛耳るクソでかい化け物。

そして、俺の愛した女が囚われている鳥籠(とりかご)だ。

ミナ。

お前は最近、うまく笑えていない。

俺にはわかる。お前は自分の研究を悔いている。

「パペット・ワルツ」だっけか。人間を操り人形にする脳波プログラム。

お前はその開発主任だ。だが、お前の本質は優しい町医者だ。人を壊すことなんてできやしない。

組織はお前のその優しさを利用し、逃げられないようにがんじがらめにしている。

だから、俺が終わらせてやる。

明日の深夜、第3研究所へ潜入する。

お前が作り上げ、そして葬り去りたがっている『マスターデータ』。

そいつを盗み出し、この世から消滅させる。

それがなくなれば、お前の研究は水泡に帰す。組織はお前を責めるだろうが、同時に「兵器開発」という呪縛からは解放されるはずだ。

俺は元々、路地裏のただの野良犬だった。

怪我をして転がり込んだ俺を、お前は無償で手当てしてくれた。

……愛してるぜ、ミナ。

俺には学もねえし、特殊な能力もねえ。あるのはこの五体と、喧嘩で培った度胸だけだ。

だが、この心臓が刻む鼓動だけは、誰にも支配させない。

この命、お前の笑顔を取り戻すためだけに使ってやる。

待ってろ。必ず助け出す。

(メモはここで途切れている)

―― 最後の思考記録 ――

熱い。

頭の中が、焼けるように熱い。

……クソッ、しくじった。

データは奪った。チップは仲間の「運び屋」に渡して逃がした。あいつならうまくやるはずだ。

だが、俺自身は出口を塞がれた。

多勢に無勢。何人ぶっ飛ばしたかわからねえ。

気がついたら、実験室の椅子に縛り付けられていた。

「検体確保。所持品にチップ無し。これより脳深層への強制アクセスを行う」

「『マスターデータ』無しで接続する気ですか!? 危険すぎます!記憶野ごと焼き切れてしまう!」

「構わん。チップを失った以上、我々の計画は頓挫だ。……脳が焼き切れる前に、記憶を引っこ抜け!」

うるせえな。

誰が言うかよ。

このデータは、渡さねえ。

これはミナの罪だ。俺が背負って、地獄まで持っていく荷物だ。

バチバチバチッ!!

あが……ッ!?

痛いなんてもんじゃない。

頭の中に、溶けた鉛を直接流し込まれているようだ。

視界が白く飛ぶ。

無理やり記憶をほじくり返される感覚。

脳神経が一本ずつ焼き切れていく音がする。

記憶が、パラパラと剥がれ落ちていく。

俺の名前。ガキの頃の風景。雨の匂い。

……痛え。

でも、耐えられる。

俺は野良犬だ。痛みには慣れてる。

なぁ、ミナ。そうだろ?

あ……。

マジックミラーの向こうに、お前がいるのが見える。

白衣を着て、震えてる。

泣いてるのか?

泣くなよ。

俺はお前の作った「悪魔の兵器」になんて屈しねえ。

お前に見せるために、カッコつけて耐えてんだからさ。

《意識レベル低下。思考領域の90%が損壊》

ヤバイな。

そろそろ、限界だ。

これ以上やられると、俺は俺じゃなくなる。

口を割る前に、脳が溶けて、植物になっちまう。

こうして俺の体は、ただの「残骸」になるってわけか。

……いいぜ、上等だ。

隠してやる。

この頭の、一番深い、誰も触れない真っ暗な闇の中に。

「秘密(データの在り処)」ごと、俺自身を沈めてやる。

俺が沈黙すれば、奴らの計画は永遠に完成しない。

俺の脳(ハードウェア)を壊してでも、守り抜いてやる。

俺はもう、動けなくなるかもしれない。

お前の名前も、思い出せなくなるかもしれない。

でも、魂(ここ)に残しておく。

お前への想いだけを、バックアップして。

思考ノイズ増大

……聞こえるか、未来の俺。

あるいは、俺の体を使う「誰か」。

この秘密は、いつか必ず、彼女の元へ届けろ。

この痛みは、決して忘れるな。

そしてミナ。

俺が壊れても、自分を責めるな。

俺は、俺の意思で選んだんだ。

……眠い。

深い、雨の底に沈んでいくみたいだ。

おやすみ、ミナ。

次に目が覚める時は、また美味いコーヒーを淹れてくれよ。

泥水みたいに苦い、あのコーヒーを……。

意識消失

(エピソード ゼロ File.03へつづく)