長編SF小説『僕らが溶け合う境界線 エピソード ゼロ』File.03 ~共犯者の夜~

―― 研究棟のゴミ箱の底、血と涙で汚れたメモ ――

筆者: ミナ
日付: X年 10月 8日 深夜

吐き気が止まらない。

恐れていた予感が、最悪の形で現実になってしまった。

ここ最近、ずっと胸の奥で渦巻いていた黒い違和感。

私は心のどこかで気づきながら、必死に目を逸らしていたのだ。

私が「治療」だと思って開発していた技術が、被験者の自我を破壊し、従順な「生体部品」を作るためのプロセスだったことを。

No.12の子があんなふうに壊れたのは、私の失敗じゃない。成功だったんだ。

私は自分の手で、数え切れない人間を殺していた。

逃げなきゃ。

今すぐにここを出て、すべてを告発しなければならない。

でも、レンには言えない。

あんな正義感の強い彼に話したら、彼はきっと無茶をする。

私一人で消えよう。泥を被るのは私だけでいい。

そう決意して、荷物をまとめていた時だった。

研究所内に、非常警報(レッドアラート)が鳴り響いた。

「侵入者確保! 第3実験室へ搬送せよ!」

「チップは所持していません!」

胸騒ぎがした。

嫌な予感が、背筋を氷のように冷たく這い上がってくる。

私は震える足で、第3実験室へと走った。

「離せ! 俺はまだ喋れるぞ! ミナに会わせろ!」

聞き間違いようのない、愛しい声。

扉を開けた瞬間、私の世界は崩れ落ちた。

警備兵に引きずられ、血まみれになって床に叩きつけられた男。

レン。

どうして? どうしてあなたがここにいるの?

私を助けに来たの? 馬鹿じゃないの。ここは地獄よ。自分から飛び込んでくるなんて。

「……主任。知り合いですか?」

部長のGが、蛇のような目つきで私を見ていた。

私は息を止めた。ここで「恋人だ」と叫んで駆け寄れば、二人とも殺される。

私は唇を噛み切り、鉄の味が口の中に広がるのを感じながら、首を横に振った。

「いえ。……ただの、侵入者です」

レンが顔を上げ、私を見た。

その目は、責めていなかった。むしろ腫れ上がった瞼(まぶた)の奥で、微かに笑った気がした。『それで良い』と言っているようだった。

その後の光景は、記述することすらおぞましい。

「マスターデータ」の在り処を吐かせるために、Gは禁忌の接続を命じた。

「『パペット・ワルツ』へ直結しろ。脳のリミッターを外して記憶野をスキャンし、隠し場所を特定せよ」と。

それは尋問ではない。脳の破壊だ。

私は咄嗟に叫んでいた。

「マスターデータ無しでの接続は危険すぎます! 被検体の脳を不可逆的に破壊するだけで、情報を読み取るどころか、記憶野ごと焼き切れてしまいます!」

必死だった。

彼を守るための、精一杯の科学的根拠を並べ立てて。

けれど、スイッチは押された。

「構わん。チップを失った以上、我々の計画は頓挫だ。……この男が壊れようが知ったことか。やれ」

「ッ……だめ!!」

レンの絶叫。

私の目の前で、彼の瞳から光が消えていく。

脳波モニターが激しい警告音(エラー)を吐き出し、波形が平坦な線(フラット)へと変わる。

私の愛したレンが、レンでなくなっていく。

私が作った機械によって。


「……チッ。壊れたか。廃棄処分にしろ。」

Gは興味を失ったように言い捨てて部屋を出て行った。

残されたのは、動かなくなったレンと、立ち尽くす私だけ。

部下たちが、彼を「ゴミ」として焼却炉へ運ぼうとする。

その瞬間、私の頭の中で何かが切れた。

いや、繋がった。

恐怖も、迷いも、倫理観も、すべてが消し飛んだ。

「待ちなさい!」

私は自分でも驚くほど冷徹な声を出した。

白衣の襟を正し、傲慢な主任の顔を作る。

「この検体は、私が処理する」

「は? しかし主任、規定では……」

「黙りなさい! 貴重なサンプルを失ったのよ。……せめて解剖して、脳の損壊データを取る必要があるわ」

部下たちは顔を見合わせ、そして頷いた。

彼らは知らない。私がこの裏で、私設の「廃棄ルート(診療所)」を持っていることを。

私はストレッチャーにレンを乗せ、裏口へと急いだ。

彼の心臓はまだ動いている。体は温かい。

でも、脳の損傷は甚大だ。もう、レンの意識が戻ることはないかもしれない。

それでもいい。

灰になるよりはマシだ。

私の手元には、完成したばかりの**『私』**のプログラムがある。

会社が「道具」として作らせた、自我を持たない管理システム。

これをレンの脳に入れれば、自律神経を代行させ、肉体を生かし続けることができるかもしれない。

レン。

許してなんて言わない。

私はあなたを死なせない。

たとえあなたが、中身のない人形になったとしても。

たとえあなたが、別の誰か(プログラム)になって目覚めたとしても。

私は一生、その傍にいる。

外は酷い雨だ。

この雨に紛れて、私たちは消える。

さようなら、エーテル社。

今日から私は、科学者でも医者でもない。

ただの、人形を愛する犯罪者だ。

《――メモはここで終わっている。最後に、血の付いた指紋が一つ残されていた》

(エピソード ゼロ File.04へつづく)