―― 研究棟のゴミ箱の底、血と涙で汚れたメモ ――
筆者: ミナ
日付: X年 10月 8日 深夜
吐き気が止まらない。
恐れていた予感が、最悪の形で現実になってしまった。
ここ最近、ずっと胸の奥で渦巻いていた黒い違和感。
私は心のどこかで気づきながら、必死に目を逸らしていたのだ。
私が「治療」だと思って開発していた技術が、被験者の自我を破壊し、従順な「生体部品」を作るためのプロセスだったことを。
No.12の子があんなふうに壊れたのは、私の失敗じゃない。成功だったんだ。
私は自分の手で、数え切れない人間を殺していた。
逃げなきゃ。
今すぐにここを出て、すべてを告発しなければならない。
でも、レンには言えない。
あんな正義感の強い彼に話したら、彼はきっと無茶をする。
私一人で消えよう。泥を被るのは私だけでいい。
そう決意して、荷物をまとめていた時だった。
研究所内に、非常警報(レッドアラート)が鳴り響いた。
「侵入者確保! 第3実験室へ搬送せよ!」
「チップは所持していません!」
胸騒ぎがした。
嫌な予感が、背筋を氷のように冷たく這い上がってくる。
私は震える足で、第3実験室へと走った。
「離せ! 俺はまだ喋れるぞ! ミナに会わせろ!」
聞き間違いようのない、愛しい声。
扉を開けた瞬間、私の世界は崩れ落ちた。
警備兵に引きずられ、血まみれになって床に叩きつけられた男。
レン。
どうして? どうしてあなたがここにいるの?
私を助けに来たの? 馬鹿じゃないの。ここは地獄よ。自分から飛び込んでくるなんて。
「……主任。知り合いですか?」
部長のGが、蛇のような目つきで私を見ていた。
私は息を止めた。ここで「恋人だ」と叫んで駆け寄れば、二人とも殺される。
私は唇を噛み切り、鉄の味が口の中に広がるのを感じながら、首を横に振った。
「いえ。……ただの、侵入者です」
レンが顔を上げ、私を見た。
その目は、責めていなかった。むしろ腫れ上がった瞼(まぶた)の奥で、微かに笑った気がした。『それで良い』と言っているようだった。
その後の光景は、記述することすらおぞましい。
「マスターデータ」の在り処を吐かせるために、Gは禁忌の接続を命じた。
「『パペット・ワルツ』へ直結しろ。脳のリミッターを外して記憶野をスキャンし、隠し場所を特定せよ」と。
それは尋問ではない。脳の破壊だ。
私は咄嗟に叫んでいた。
「マスターデータ無しでの接続は危険すぎます! 被検体の脳を不可逆的に破壊するだけで、情報を読み取るどころか、記憶野ごと焼き切れてしまいます!」
必死だった。
彼を守るための、精一杯の科学的根拠を並べ立てて。
けれど、スイッチは押された。
「構わん。チップを失った以上、我々の計画は頓挫だ。……この男が壊れようが知ったことか。やれ」
「ッ……だめ!!」
レンの絶叫。
私の目の前で、彼の瞳から光が消えていく。
脳波モニターが激しい警告音(エラー)を吐き出し、波形が平坦な線(フラット)へと変わる。
私の愛したレンが、レンでなくなっていく。
私が作った機械によって。
「……チッ。壊れたか。廃棄処分にしろ。」
Gは興味を失ったように言い捨てて部屋を出て行った。
残されたのは、動かなくなったレンと、立ち尽くす私だけ。
部下たちが、彼を「ゴミ」として焼却炉へ運ぼうとする。
その瞬間、私の頭の中で何かが切れた。
いや、繋がった。
恐怖も、迷いも、倫理観も、すべてが消し飛んだ。
「待ちなさい!」
私は自分でも驚くほど冷徹な声を出した。
白衣の襟を正し、傲慢な主任の顔を作る。
「この検体は、私が処理する」
「は? しかし主任、規定では……」
「黙りなさい! 貴重なサンプルを失ったのよ。……せめて解剖して、脳の損壊データを取る必要があるわ」
部下たちは顔を見合わせ、そして頷いた。
彼らは知らない。私がこの裏で、私設の「廃棄ルート(診療所)」を持っていることを。
私はストレッチャーにレンを乗せ、裏口へと急いだ。
彼の心臓はまだ動いている。体は温かい。
でも、脳の損傷は甚大だ。もう、レンの意識が戻ることはないかもしれない。
それでもいい。
灰になるよりはマシだ。
私の手元には、完成したばかりの**『私』**のプログラムがある。
会社が「道具」として作らせた、自我を持たない管理システム。
これをレンの脳に入れれば、自律神経を代行させ、肉体を生かし続けることができるかもしれない。
レン。
許してなんて言わない。
私はあなたを死なせない。
たとえあなたが、中身のない人形になったとしても。
たとえあなたが、別の誰か(プログラム)になって目覚めたとしても。
私は一生、その傍にいる。
外は酷い雨だ。
この雨に紛れて、私たちは消える。
さようなら、エーテル社。
今日から私は、科学者でも医者でもない。
ただの、人形を愛する犯罪者だ。
《――メモはここで終わっている。最後に、血の付いた指紋が一つ残されていた》
(エピソード ゼロ File.04へつづく)

