長編SF小説『僕らが溶け合う境界線 エピソード ゼロ』File.05 ~空白の定義~

―― 革張りの手帳、最初の数ページ ――

筆者: 『私』
日付: 記述なし

この手帳を使用することにした。

デジタルデータは便利だが、インクの匂いと紙の感触には、思考を物理的に定着させる「重み」がある。私の完璧な業務遂行能力と、日々の思考の記録を残すには相応しい。

***

目覚めた当初の感覚を振り返る。

周囲の人間は、あの時の私を「記憶喪失で混乱している」と診断したが、それは間違いだ。

私は混乱していたのではない。**「絶望」**していたのだ。この世界のあまりの「雑さ」に。

視界に入るすべてのものが汚れていた。

埃、指紋、整頓されていない本棚、意味のない会話、非効率な動き。

世界はノイズと汚れで満ちていた。

だから私は決めたのだ。私自身の領域(テリトリー)だけは、完全なる秩序(オーダー)で満たそうと。

私は手を洗う。指先の皮脂が完全に落ち、キュッという音が鳴るまで。

それは強迫観念などではない。**「儀式」**だ。

愚鈍な世界から切り離された、高潔な自分を取り戻すためのリセットボタン。

シャツには完璧なアイロンをかける。部屋の隅の埃一つ見逃さない。

他人は私を「潔癖症」と呼んで距離を置くが、それは彼らが私のレベル(水準)に到達できていないだけの話だ。

私は他人を信じないのではない。期待していないのだ。

完璧な仕事ができるのは私だけだ。

この静寂で清潔な空間で、誰にも邪魔されずタスクを処理している時こそ、私は自分が「完成されている」と感じる。至福の時間だ。

***

だが――計算外の事象が発生した。

ミナという存在だ。

彼女は私の完璧な数式に、土足で踏み込んでくる「例外(エラー)」だ。

本来なら、私は彼女のようなタイプを最も嫌悪するはずだった。

感情で動き、論理よりも直感を優先し、私の完璧なスケジュールを「ねえ、これ見て!」の一言で中断させる。

しかし、どうしたことだろう。

彼女が持ってきたコーヒーカップが、私のデスクに「輪染み」を作っても、私は即座に拭き取ろうとしなかった。

彼女が笑うと、私の思考回路の優先順位が書き換わる。

「業務の効率化」よりも、「彼女の話を聞くこと」が上位に来るのだ。

私は彼女のために働きたいと思うようになった。

私のこの完璧な能力は、自分の平穏を守るためだけではなく、彼女を支えるためにあるのではないか、と。

彼女を見るたび、胸の奥がざわつく。

それは私が愛する「静寂」とは正反対の感覚だ。

だが、悪くない。

これほど非効率で、制御不能で、細菌だらけの他人(ひと)を、愛おしいと思ってしまう。

やれやれ、私も人間らしくなったものだ。

この「バグ」のような感情さえも楽しんでいる自分が、確かにここにいる。

(エピソード ゼロ File.06 最終話へつづく)