長編SF小説『僕らが溶け合う境界線 エピソード ゼロ』File.06(最終話)~走り続けた影~

――「依頼人(運び屋)」の走り書きのメモ ――

日付: X+3年 10月 14日 雨
場所: 国道沿いの排水路 一時退避ポイント

息が切れる。心臓が早鐘を打っている。

だが、手は軽い。

あの鉛のように重かった「チップ」は、もう俺の手にはない。

渡した。渡しちまった。

……あいつの顔をした、「あいつじゃない誰か」に。

3年前。あの大雨の夜のことを思い出す。

俺とレンは、エーテル社の研究所から脱出しようとしていた。

警報が鳴り響き、武装した衛兵たちが通路を塞ぐ。

俺は恐怖で足がすくんでいた。ただの運び屋風情が、手を出しちゃいけないヤマだったんだ。

『おい、カイ。これを持って走れ』

レンは、盗み出したばかりの黒いチップを俺の胸ポケットにねじ込んだ。

それは、奴らが血眼になって探している「マスターデータ」だった。

『レン、お前はどうするんだ!』

『俺が囮(おとり)になる。お前はそのチップを持って、絶対に捕まるな』

『無理だ! 俺一人じゃ逃げきれねえ!』

レンはニカッと笑った。あの、いつもの不敵な野良犬の笑みで。

『大丈夫だ。……ほとぼりが冷めたら、ミナのところへ持って行ってくれ。あいつなら、扱い方を知ってるはずだ』

そう言い残して、レンは銃弾の嵐の中へ飛び出していった。

俺は走った。背後でレンの怒号と、何かが壊れる音が聞こえたけれど、一度も振り返らなかった。

それからの3年間は、地獄だった。

ミナの診療所には近づけなかった。エーテル社の監視の目が、四六時中張り付いていたからだ。

俺がうかつに近づけば、ミナも殺され、チップも奪われる。

俺は地下に潜り、偽名を使い、ドブネズミのように逃げ回った。

チップはずっと懐にあった。

こいつを捨てれば楽になれる。何度もそう思った。

だが、捨てられなかった。

これはレンの命そのものだ。あいつが自分の明日と引き換えに、俺に託した希望だ。

そして今日。ついに限界が来た。

奴らの包囲網が狭まり、もう隠れ場所がなくなった。

俺は賭けに出た。

裏社会で噂になっていた「記憶の金庫番」を使うことにしたんだ。

『どんな危険なデータでも、脳内に隠して運んでくれるプロがいる』

そんな噂を頼りに、俺はそのアパートのドアを叩いた。

出てきた男を見た瞬間、俺は腰を抜かしそうになった。

レンだ。

死んだと思っていた、レンがそこにいた。

同じ顔、同じ声、同じ背格好。

「……あ、あんたが。『金庫番』……なのか?」

俺は震える声で尋ねた。

だが、返ってきたのは、まるで機械のような冷たい反応だった。

「そうです。お座りください」

違う。こいつはレンじゃない。

レンなら、あんな綺麗にアイロンのかかったシャツなんて着ない。

あんな無機質な目で、俺を見たりしない。

じゃあ、こいつは誰だ? レンであって、レンじゃないこの「亡霊」は。

だが、時間がない。追っ手はすぐそこまで来ている。

俺はチップを叩きつけた。

「頼む……これを、預かってくれ!」

奴は淡々と処理を進めようとした。

俺は焦った。コピーじゃ意味がない。こいつは特殊な『鍵』なんだ。

「頭に直刺し(マウント)したまま運んでくれ!」

俺は無茶な注文をした。

奴は一瞬の躊躇もなく、チップを自分の首筋に突き立てた。

その時だった。

奴が苦しみ出した。

ただの痛みじゃない。何かが、内側から溢れ出てくるような苦しみ方。

(……てえな)

俺は耳を疑った。

奴の口からではなく、もっと深いところから、聞き覚えのある声が響いた気がしたからだ。

レンだ。レンの声だ。

俺は悟った。

こいつは亡霊なんかじゃない。

こいつは「器」だ。レンの肉体を使った、誰かの作り出した金庫だ。

そして、その奥底には……まだ「あいつ」が眠ってる。

遠くでサイレンが聞こえた。

もう行かなきゃならない。

俺の役目は、ここまでだ。

俺はドアに向かって走り出した。

最後に、振り返って叫んだ。

「頼んだぞ! 3日後、街外れの『ミナ診療所』のところへ届けてくれ! 彼女なら……彼女なら、これが何かわかるはずだ!」

ミナ。

あんたが恋人の体をどうやって生かしたのか、俺にはわからない。

だが、あんたはずっと待ってたんだろ?

この鍵が、あいつの元へ帰る日を。

俺は雨の中へ飛び出した。

今度は俺が囮になる番だ。

レン。お前の体は、お前の魂は、あいつ(金庫番)がきっと届けてくれる。

3年越しの約束、やっと果たせたぜ。

……さて、派手に逃げ回るとするか。

野良犬の逃げ足の速さ、見せてやるよ。

***

(『僕らが溶け合う境界線 エピローグ』へつづく)