短編小説『連結部の虐殺者』

時速二百八十キロで疾走する密室のさらにその隙間。

新幹線の車両と車両を繋ぐ連結部のデッキは、轟音の坩堝(るつぼ)だった。

金属と金属が悲鳴を上げ、気圧の変動が鼓膜を圧迫する。

空調の効いた静謐(せいひつ)な客席とは別世界の、荒々しい機械仕掛けの空間。

この過酷な環境下で、沖田史郎は世界の命運を握る指揮官のごとき形相で、スマートフォンを耳に押し当てていた。

彼が対峙しているのは、数百キロ離れた東京のオフィスでパニックに陥っている部下、山下である。

そして、山下が直面しているのは、コンピュータの脳内で発生した、ある種の「人口爆発」であった。

「ええい、山下。何度言えばわかる。手ぬるいんだよ、やり方が」

沖田は怒鳴った。

轟音に負けじと張り上げた声は、必然的に凶暴な響きを帯びる。

事態は深刻だった。

彼らが構築中のシステムにおいて、メモリ ――

それは、電子の情報の海における有限な不動産 ――

が、無秩序に増殖したデータの塊(オブジェクト)たちによって不法占拠され、システム全体が窒息寸前なのだ。

これらのデータは、厄介なことに「家系図」のような構造を持っていた。

一つのデータが「親」となり、そこから複数の「子」データがぶら下がり、さらにその下に「孫」データが連なる。

この巨大な樹形図のごとき一族郎党を、メモリの枯渇を防ぐために、一匹残らず粛清(クリア)しなければならない。

それが、今、沖田に課せられた使命だった。

「いいか、よく聞け。順番を間違えるなと言っているんだ」

その時、自動ドアが「プシュウ」と気の抜けた音を立てて開き、一人の女性客がデッキに足を踏み入れた。

ビジネスカジュアルに身を包んだ、三十代半ばと思しき女性だ。

彼女は通路側の化粧室へと向かうため、電話に没頭する沖田の背後を通過しようとしていた。

沖田の視界の隅に彼女の姿が映ったが、彼の意識は電子の海における殺戮の作法に集中していた。

彼は、プログラミングの世界における絶対的な真理を、無能な部下に叩き込まねばならなかった。

もし、この家系図の頂点にいる「親」を先に消してしまったらどうなるか。

「子」や「孫」たちは、拠り所を失い、メモリの海を永遠に彷徨う「迷子(メモリリーク)」となってしまう。

それは、技術者として最も恥ずべき無秩序な状態だ。

だからこそ、順序は厳格に守られねばならない。

沖田は、受話口の向こうで狼狽する山下に向けて、決定的な指令を放った。

「馬鹿野郎! 最初に『親』を殺すんじゃない!」

沖田のドスの利いた声が、狭いデッキの壁に反響した。

背後を通り過ぎようとしていた女性の足が、ピタリと止まった。

だが、沖田は気づかない。

彼の脳内では、無数のデータオブジェクトが整然と並び、処刑の時を待っている。

彼はその執行人であり、冷徹な論理の信奉者であった。

「いいか、まず『子』だ。その『親』の『子』を全部殺してから、最後に『親』を殺すんだ。順番を逆にするな。『孤児』が溢れて収拾がつかなくなるぞ」

女性の呼吸が止まった気配がした。

彼女の視点に立ってみよう。

新幹線のデッキという逃げ場のない空間で、スーツを着た男が、電話口の相手に向かって、一家惨殺の具体的な手順を指南しているのだ。

「親を殺すな、まず子を殺せ」

この言葉を、額面通り以外のどういう意味で受け取れというのか。

しかし、沖田の熱弁は止まらない。

システムの安定稼働のためには、さらなる徹底が必要だった。

「おい、聞いているのか山下。もしもその『子』に、さらに下の『孫』がいる場合はどうする? 言ってみろ……違う! 馬鹿者が!」

沖田は苛立ちを露わにし、デッキの壁をバンと叩いた。

女性が小さく悲鳴を上げたが、電車の走行音にかき消された。

「『子』よりも先に、『孫』を全部殺すに決まっているだろうが!」

沖田は、自らの論理的正当性に微塵の疑いも抱いていなかった。

これは「後退順序トラバーサル」と呼ばれる、木構造データを末端から安全に解放するための、極めて理にかなった、そして教科書通りのありきたりな手順なのだ。

「末端から順に、一人残らずだ。でないと、一網打尽にできないからな。徹底的にやれ。根絶やしにするんだ」

根絶やし。一網打尽。殺す。

これらの言葉が、鉄の箱の中で乱反射し、女性の鼓膜を震わせた。

彼女の顔から、急速に血の気が引いていくのが、連結部の窓ガラスに幽霊のように映り込んだ。

彼女の視界には、電話口で大量殺戮の指揮を執る、冷血な闇の組織の幹部か何かが映っていたに違いない。

だが、悲しいかな、沖田の網膜には、無駄なデータが整然とクリアされ、広大で美しいメモリ空間が確保されていく、輝かしいビジョンしか映っていないのだ。

「よし、わかったな。すぐに実行しろ。結果を報告しろ」

沖田は一方的に通話を切った。

「ふう」

彼は満足げなため息をついた。

大きな仕事を成し遂げた後の、心地よい疲労感があった。

これでシステムは救われる。自らの的確な指示に、彼は改めて惚れ直していた。

彼はスマートフォンをポケットにしまい、化粧室へ行こうと振り返った。

そこにはもう、女性の姿はなかった。

ただ、彼女がいたはずの空間に、微かな香水の残香と、耐え難い恐怖の気配だけが、凍りついたように漂っていた。

「……ん?」

沖田は首を傾げた。確かに誰かいたような気がしたが。

「……なんだ、そそくさと」 

彼は、彼女が自分の発する圧倒的なビジネスマンとしてのオーラに気圧され、恐れをなして逃げ出したのだと都合よく解釈した。

そして、再び轟音渦巻くデッキで一人、ネクタイの結び目を直し、己の完璧な仕事ぶり悦に入った。

その男が、ただのメモリ管理の話をしていただけだと知る者は、この高速移動体の中には一人もいなかった。

(終)


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