短編小説『日曜日のピアニスト』

休日の午後。淹れたての紅茶をテーブルに置き、読みかけの小説を開くのが、私の静かな楽しみだ。

その時間がやってくると、決まって隣の家からピアノの音が聞こえてくる。

曲目はいつも同じ。ピアノの発表会などでよく弾かれる、ブルグミュラーの『アラベスク』だ。

軽快で少しミステリアスな旋律が、開け放たれた窓から風に乗って届く。

しかし、その演奏は決して「完璧」ではない。

曲の中盤、左手と右手の動きが少し複雑に交差する箇所。そこで必ず、音がつまずくのだ。

タタタタ、ターン。……ポロ。

(あ、また間違えた)

私は本に視線を落としたまま、心の中で小さく呟く。

隣の弾き手は、そこで一度演奏をピタリと止め、ふうっと小さなため息をつくかのような間が空く。

そしてまた、最初から、あるいは少し前から真面目に弾き直すのだ。

その不器用だけれど根気強い繰り返しを聴いているうちに、私はすっかりこの「日曜日のピアニスト」を応援するようになっていた。

(今日は惜しかったな)とか、(おっ、今日はいつもより指が滑らかだぞ)などと、勝手に審査員気取りで耳を傾ける。姿も名前も知らない相手だが、その一生懸命なピアノの音は、私の静かな休日に欠かせない、心地よいBGMになっていた。

季節が冬から春へと移り変わり、風がすっかり柔らかくなったある日曜日のこと。

いつものように『アラベスク』が始まった。

今日の演奏は、出だしからどこか自信に満ちているように聞こえた。軽やかなテンポのまま、例の「鬼門」のフレーズへと差し掛かる。

私は思わず、ページをめくる手を止めた。

タタタタ、ターン。

……流れた。

つまずくことなく、指が鍵盤の上を滑っていく。そのまま一度も止まることなく、最後の和音まで美しく、力強く弾き切ったのだ。

見事な演奏だった。

数ヶ月間の見えない努力を知っている私は、まるで自分のことのように嬉しくなり、本を置いて、開いた窓に向かってパチパチパチと小さく拍手をした。

すると、隣の窓から聞こえてきたのは、いつものため息ではなく、パタパタという元気な足音だった。

「お母さん! 今の聞いた!? つっかえないで最後まで弾けたよ!!」

弾んだ高い声。どうやら、日曜日のピアニストは小さな女の子だったようだ。

「すごいじゃない! ずっと練習してたもんね」

お母さんの優しい声が響く。

「うん! あとね、お隣さんからも拍手してもらっちゃった!」

私は驚いて、思わず口元を押さえた。私の小さな拍手の音は、ちゃんと春の風に乗って、隣の窓まで届いていたらしい。

「ふふっ」

私はもう一度、今度は自分のために、紅茶を一口飲んだ。

春の陽だまりの中で飲む紅茶は、いつもよりずっと甘く、優しい味がした。

(了)