悪とは、究極の孤独である。
冷たい海溝の底で泥を啜るように生きてきた彼にとって、暗黒帝国の将軍から直々に下された勅命は、己の存在意義を証明するための輝かしい福音であった。
「忌まわしき正義のレンジャーどもを、一匹残らず惨殺せよ」
怪人・ウツボ男爵。それが彼の名である。
全身を覆う滑らかな海没色の表皮、獲物を捕らえて離さない凶悪な二重の顎(あぎと)。彼は自らの宿命を静かに受け入れた。正義という名の欺瞞(ぎまん)に満ちた光を、この手で永遠の暗闇へと葬り去る。それは、悪を標榜する者として、あまりにも崇高で、そして孤独な単独任務『ソロ・ミッション』であった。
「御意に」
ウツボ男爵は短く応えると、自らの肉体を亜空間へと沈み込ませた。
彼が選択した強襲の手段は、空間跳躍(ワープ)である。
敵の懐深く、彼らが油断しきっている休息の場――いわゆる「楽屋」と呼ばれる聖域へと直接顕現し、防戦の暇(いとま)すら与えずにその首を刈り取る。五色の戦士たちを血の海に沈め、返り血を浴びた己の姿を想像するだけで、彼の冷血な心臓は甘美な高鳴りを覚えた。
次元の壁が軋み、空間が歪む。
ウツボ男爵は、物理法則の壁を食い破り、ついに目標座標へと到達した。
閃光。そして、焦げたオゾンの匂い。
煙が晴れると同時に、彼は誇り高き悪の怪人として、計算し尽くされた最も恐ろしいポーズを取り、深海から響くような声で名乗りを上げた。
「フハハハハ! 愚かなる正義の犬どもよ! 貴様らの命運もここまでだ!」
彼の出現に、部屋の空気が一瞬にして凍りついた。
目の前で幕の内弁当をつついていた赤い戦士が、割り箸を落として立ち上がる。緑の戦士が、飲みかけていたお茶を吹き出した。彼らは明らかに慌てていた。不意打ちのワープは、完璧に成功したのだ。
「我が名はウツボ男爵! 貴様らの首を将軍への供物として……」
だが、男爵の哄笑(こうしょう)は、そこから先へは続かなかった。
彼の優れた視神経が、部屋の「奥行き」を正確に捉え始めたからである。
そこは、体育館と見紛うほどに広大な空間だった。
彼が標的としていた五色の戦士たちの背後。そこには、信じがたい光景が広がっていた。
赤、青、黄、緑、桃。
それは基本の五色である。しかし、男爵の視界を埋め尽くしているのは、そんな慎ましい数の色彩ではなかった。
赤が、やけに多いのだ。
恐竜の意匠を凝らした赤、忍者の装束を纏った赤、車をモチーフにした赤、魔法使いの赤。彼らは皆、一様に驚いた顔で男爵の方を振り向いている。
さらに視線を巡らせる。
黒、白、金、銀、橙、紫。パイプ椅子に腰掛け談笑する者、床でストレッチをする者、姿見の前で名乗りのポーズを確認する者。壁際には「東映まんがまつり 出演者控室」と書かれた巨大な立て看板が、無慈悲に鎮座している。
十人や二十人ではない。
その空間には、優に二百人を超える「正義の戦士たち」がひしめき合っていた。
ウツボ男爵の脳内で、悪の将軍から授かった「一匹残らず惨殺せよ」という命令が、虚しくエコーとなって響いた。
(一匹残らず?)
彼の思考回路が、急激に熱を帯びる。
もし仮に、彼がこの場にいる全員を相手に戦端を開いたとする。彼が誇る必殺の「ウツボ・ファング」で一人を仕留めている間に、残り百九十九人から一斉に放たれるであろう容赦ない打撃、合体剣、必殺バズーカ。それはもはや戦闘ではなく、原色(スパンデックス)の暴力による一方的な粉砕処理である。
悪とは孤独な営みだ。
彼はたった一人で、この圧倒的なまでの「正義の飽和」に立ち向かわなければならないのだ。正義はいつだって、徒党を組み、数を頼み、全体主義的な暴力でマイノリティたる悪を蹂躙(じゅうりん)してきたではないか。
男爵のぬめりを帯びた額から、冷たい汗が流れ落ちた。
二百人の視線が、一人の孤独なウツボに突き刺さっている。彼らの瞳の奥に、怪人という名のボーナスステージが現れた歓喜の光が灯り始めるのを、男爵は確かに見た。
彼は、自分が握りしめていた凶器の矛先をゆっくりと下ろした。
そして、暗黒帝国の杜撰(ずさん)極まりない情報収集能力と、この理不尽なまでの数的暴力の前に、絞り出すように呟いた。
「ちょっと、聞いてないんですけど……」
その弱々しい抗議は、正義の戦士たちが一斉に武器を構えるガチャリという金属音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
(第2話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

