連載小説『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』第8話(最終話) ~巣鴨の弟子と新宿の教育係~

チュン、チュン……。

小鳥のさえずりが、遠くから聞こえてきた。

「……んぅ」

理沙は、センターの奥にある仮眠用のソファで目を覚ました。

体が軽い。

あの鉛のような重だるさも、骨の髄まで凍える悪寒も、嘘のように消えている。

恐る恐る背中に手を回してみる。つるりとした肌の感触。

あの忌まわしい「黒い蔦(つた)」は、跡形もなく消え去っていた。

「目が覚めましたか」

穏やかな声に、理沙は飛び起きた。

カウンターの方を見ると、二人の男がいた。

一人は、真っ白なスーツを着て、優雅に缶コーヒー(微糖)を飲んでいる男――相沢。

もう一人は、ボロボロのTシャツ姿で、カップラーメンをズルズルと音を立てて啜っている、柄の悪い男――須藤。

「あ、あの……あなたたちは……?」

相沢が微笑み、カップラーメンの汁を飲み干した須藤が「あー、食った」と行儀悪く箸を置いた。

「私たちは同業者ですよ。ただし、あなたより少しだけ先輩のね」

相沢はそう言うと、手にはめていた白い手袋をゆっくりと外した。

一瞬、理沙の視界が白く染まった。

物理的な光ではない。相沢の体から溢れ出る、圧倒的に純粋で、強大な「光のオーラ」だ。

それは理沙の微弱な能力とは次元が違った。まるで、ロウソクの火と太陽ほどの差がある。

そして、隣の須藤からも、また別のプレッシャーを感じた。

荒々しく、しかし研ぎ澄まされた刃物のような鋭い波動。

彼がその気になれば、理沙の精神など一瞬で切り刻めるだろう。

「ひっ……」

理沙は震え上がり、ソファの上で小さくなった。

(すごい……私なんて、足元にも及ばない。今まで私、自分は特別だなんて思い上がって……井の中の蛙だったんだ)

理沙の目から、涙が溢れ出した。

「ごめんなさい……私、人助けのつもりだったのに……みんなを傷つけて……とんでもないことを……」

「ええ、とんでもないことでしたよ」

須藤がふんと鼻を鳴らした。

「あんたの出した汚物の処理をさせられた俺の身にもなってみろ。一生分のトラウマもんだ」

「す、すみません……!」

理沙は土下座の勢いで頭を下げた。

「私、もう辞めます! こんな危険なこと、私にはできません! 資格なんてありません!」

「辞めるのは自由ですが」

相沢が冷たい声で遮った。

「あなたのその『能力』は、仕事を辞めても消えませんよ」

理沙が顔を上げると、相沢は真剣な眼差しで彼女を見下ろしていた。

「あなたは無意識に感情を吸い寄せてしまう体質だ。正しい制御法(コントロール)を学ばなければ、またいつか必ず暴発して、今度こそ死ぬでしょう。……あるいは、完全にバケモノになって殺処分されるか」

「そんな……じゃあ、どうすれば……」

「仕事を続けなさい。そして、現場で学びなさい。ただし」

相沢はニコリと笑った。

「今日からは、厳重な『監視付き』でね」

相沢は視線を横に向けた。

「須藤さん。彼女の教育係をお願いします」

「ぶふっ!!」

須藤が飲みかけた水を吹き出した。

「はあ!? ふざけんな! なんで俺がこいつの子守りをしなきゃなんねえんだよ! 吉祥寺で引き取れよ!」

「適任だからですよ」

相沢は平然と答えた。

「彼女がまた暴走しかけた時、その不協和音(ノイズ)をいち早く察知できるのは、耳の良いあなたしかいない。それに……」

相沢は須藤の耳元で、楽しげに囁いた。

「私の『貸し』、まだ残ってますよね? 今回の件、本部に提出する報告書に、あなたの活躍を『英雄的』に書くか、それとも『協調性のない問題児』と書いて査定を下げるか……」

「……チッ!!」

(俺が送った高級コーヒー豆が、無かったことになってやがる……)

須藤は盛大に舌打ちをし、頭をガシガシとかきむしった。

「悪魔かてめぇは! ……分かったよ、やりゃあいいんだろ!」

須藤は理沙の方を向き、サングラス越しに睨みつけた。

「おい、巣鴨。勘違いすんなよ。俺は優しくねえぞ。スパルタだ。泣いても知らねえからな」

「は、はいっ! よろしくお願いします!」

***


それからの日々は、理沙にとって地獄……いや、修行の日々となった。

カランコロン。

「いらっしゃいませ!」

客が来るたびに、カウンターの奥には、腕組みをして仁王立ちする須藤の姿があった。
(彼は非番の日や休憩時間に、わざわざ新宿から出向いてきていた)

理沙がお年寄りの「寂しさ」を感じ取り、無意識にそれを吸い取ろうと手を伸ばすと――。

パコッ!

須藤が丸めた雑誌で、理沙の頭を叩いた。

「いった!」

「吸うなバカ! お前は掃除機か!」

「で、でも、辛そうだから……」

「同情すんな。感情に触れるな。『見る』だけにしろ」

須藤は厳しく指導した。

「いいか、客の荷物は客のものだ。重かろうが汚かろうが、勝手に背負ってやる必要はねえ。お前はただ、それを『整理』して返すだけでいいんだよ」

「整理……」

「受け流せ。自分の中に入れるな。右から左へスルーしろ」

須藤の口は悪かったが、その指導は的確だった。

理沙は少しずつ、「感情に呑み込まれずに、ただ観察する」技術を身につけていった。

巣鴨の街にも、穏やかな日常が戻っていた。

赤パンツを奪い合っていたおばあちゃんたちも、今では仲良くお茶を飲み、あのボランティアの金子さんも、少ししおらしくなってゴミ拾いをしている。

***


ある晴れた午後。

一人の小さなおじいさんが、センターを訪れた。

「あの……孫から届いた手紙を、どこかで落としてしまったようで……」

おじいさんは涙目だった。大切な宝物を失くした悲しみと焦り。

その感情は、雨に濡れた段ボールのような匂いがした。

理沙は、後ろで監視している須藤をチラリと見た。

須藤は何も言わず、顎で「行け」と合図した。

理沙は深呼吸をした。

(吸い取っちゃダメ。ただ、探すだけ)

彼女は「可哀想」という感情をグッとこらえ、能力を「探索」だけに集中させた。

視覚と嗅覚を研ぎ澄ます。

段ボールの匂いの軌跡を辿る。

「……ありました」

理沙は、待合室の座布団の隙間に挟まっていた封筒を見つけ出した。

そこには、少しの「焦り」が付着していたが、理沙はあえてそれに触れなかった。

ただ、埃を払うように手で撫でただけだ。

「これですね?」

「ああ! これだ! よかったぁ……」

おじいさんは封筒を胸に抱きしめ、くしゃくしゃの笑顔になった。

「ありがとう、お嬢さん。本当にありがとう」

その笑顔を見た瞬間、理沙はハッとした。

魔法を使って不安を消さなくても、吸い取ってあげなくても。

ただ「見つける」だけで、人はこんなに素敵に笑えるんだ。

「……どういたしまして!」

理沙は、今までで一番自然な笑顔で答えた。

おじいさんが帰った後、須藤が鼻を鳴らした。

「……フン。まあ、及第点だな」

彼は壁から背を離し、出口へと歩き出した。

「俺は帰る。新宿の地下が恋しくなってきた」

「あ、須藤さん! お茶淹れます!」

理沙が呼び止めるが、須藤は振り返らずに手を振った。

「いらねえ。泥水はもうこりごりだ」

そう言い捨てて、不機嫌な教育係は雑踏へと消えていった。

***


理沙はカウンターに戻り、大きく伸びをした。

背中は軽い。

もう、誰も背負っていない。

でも、心は満たされていた。

『巣鴨駅 遺失物取扱センター』

ここは、吉祥寺のようなプロフェッショナルな場所でも、新宿のような危険な場所でもない。

小さくて未熟な「見習い」が、厳しい師匠に怒られながら、今日も誰かの心を少しだけ軽くする場所。

「さて、仕事しよっ!」

理沙の明るい声が、地下の小さな部屋に響いた。

「いらっしゃいませ! どのようなお忘れ物ですか?」

(『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』 完)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。


Next Season…
連載小説『感情の忘れ物4 秋葉原・影山リアム編

Coming soon…。お楽しみに!