短編小説『守礼門の滞留』

財布の奥底に、開かずの「門」がある。

会社員の沖田は、その存在を半年もの間、意識の片隅に追いやり続けていた。

二千円札である。

かつて西暦二千年という、人類がこぞって未来を夢見たミレニアムの興奮が生み出した、国家的な記念碑。

しかし今、この紙幣は通貨としての流動性を失い、沖田の革財布という淀みの中で、ただ静かに苔(こけ)むすのを待っているかのように鎮座していた。

紫式部でもなければ、野口英世でもない。ましてや、新時代の覇者たる渋沢栄一や津田梅子でもない。そこには、ただ建築物が描かれている。

無機物であるがゆえの、圧倒的な孤独。

沖田はこの日、オフィスの裏路地にある定食屋で、豚の生姜焼き定食を平らげたところだった。

代金は八百五十円。

極めて庶民的で、平和な金額だ。

彼は水を一口飲み、伝票を掴んで立ち上がった。レジへと向かう短い道程で、彼は脳内の金庫を確認する。

千円札の持ち合わせはない。

あるのは、傲慢な一万円札(渋沢)が一枚と、硬貨が数枚。そして、あの「門」が一枚だ。

ここで一万円札を行使するのは、沖田の美学に反する。昼時の戦場と化したレジにおいて、九千百五十円もの釣り銭を吐き出させる行為は、店側のオペレーションに対するテロリズムに等しい。

ならば、論理的帰結として、選択肢は一つしかない。

守礼門を開放する。

千百五十円のお釣り。計算は明快だ。

だが、沖田の指がその緑がかった紙幣に触れた瞬間、奇妙な罪悪感が胸をよぎった。

紙幣の表面には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と記されている。礼節を重んじる国、という意味だ。

「礼」とは何か。それは、相手を慮(おもんぱか)り、場を円滑にすることではないか。

だとすれば、この「守礼門」を提示するという行為自体が、現代の高速化された決済社会においては、皮肉にも「無礼」に該当するのではないか?

この紙幣を見た瞬間、店員は一瞬思考を停止させるだろう。「あ、二千円」と認識するためのコンマ数秒のラグ。そして、レジスターの中に二千円札専用のポケットが存在しないという物理的な欠落。

それらの負担を、この忙しいおばちゃん店員に強いることは、果たして「守礼」なのか。

「お会計、八百五十円になります」

思考する時間は終わった。

沖田は覚悟を決めた。彼は財布から、半年間温め続けた沖縄の風を、灰色の東京の空気に晒(さら)した。

「これで」

彼は祈るような気持ちで、守礼門をコイントレーに置いた。

一瞬、店内の喧騒が遠のいた気がした。

おばちゃん店員は、濡れた手でエプロンを拭い、その紙幣を摘み上げた。

彼女の眉が、わずかに動く。それは嫌悪ではなく、まるで遺跡から発掘された土器を鑑定するかのような、純粋な驚きと戸惑いの色だった。

「……はい、二千円からで」

彼女の声には、一拍の「間」があった。

その「間」こそが、この紙幣が背負った業(ごう)である。ミレニアムの熱狂が冷め、忘れ去られた貴公子の孤独である。

ガシャン、とレジが開く。

沖田は固唾(かたず)を飲んで見守った。彼はどこへ行くのか。

おばちゃんは迷わなかった。彼女は千円札の束を持ち上げると、その一番下――もっとも暗く、もっとも重圧のかかる場所へ、守礼門を滑り込ませたのだ。

そこは、一万円札の隠し場所か、あるいは商品券などの「異物」を隔離する独房だ。

彼は流通という海へ帰されたのではない。再び、より深い地下牢へと移送されたに過ぎなかった。

「はい、千百五十円のお返しね」

渡された北里柴三郎と硬貨は、ひどく軽く感じられた。

それは、日常という名の、何の引っ掛かりもない安寧(あんねい)の重さだった。

沖田は店を出た。

ビルの隙間から切り取られた四角い空から、生温かい風が吹いている。

財布の中は、門が消えた分だけ物理的に薄くなったはずだが、なぜか心理的なしこりは消えていない。

あの守礼門が、再び日の目を見るのはいつになるのだろう。

今夜のレジ締めか。銀行への入金時か。いずれにせよ、彼が手から手へと渡り歩き、人々の生活を潤す幸福な旅路に戻ることは、もう二度とないのかもしれない。

「なんくるないさ」

沖田は誰に聞かせるでもなく呟いてみた。

だがその沖縄の言葉は、都会の乾いたアスファルトに吸い込まれ、ただ虚しく響くだけだった。

電子決済の普及したこの街で、守礼の心は、行き場を失って迷子になっている。

沖田はスーツの襟を正し、午後の業務という名の現実へ戻るべく、足早に歩き出した。

(終)


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