帰還とは、敗北の儀式である。
ウツボ男爵が暗黒帝国の転送座標に降り立ったのは、春の陽光がとうに傾き、採石場の爆煙が風に散り果てた頃であった。
全身の表皮は四十体分の必殺技の余波を受けて変色し、二重の顎は半分ほど機能を停止していた。三又槍は原形をとどめておらず、残ったのは柄の部分が十センチほどのみである。帝国の転送装置が彼を拾い上げた理由は、おそらく「生体反応あり」という最低限の条件をかろうじて満たしていたからに過ぎない。
男爵は石畳の廊下を、引きずるような足取りで将軍の玉座の間へと向かった。
廊下ですれ違う戦闘員たちが、一様に目を逸らした。あからさまな哀れみと、我関せずという意思表示が、その背中に滲んでいた。上司の大失敗に巻き込まれた部下の悲哀を、彼らは本能的に嗅ぎ取っているのだ。
玉座の間の扉を前にして、男爵は三秒だけ目を閉じた。
報告すべき事実は何か。自分は任務に失敗した。理由は、目標座標が「春の合同ファン感謝祭」の会場であったため。敵戦力は二百人、支援ロボット四十体。以上。
それ以外の感情——屈辱、恐怖、体育座りをした事実、涙の痕——は報告に含める必要はない。悪の怪人は簡潔であるべきだ。
男爵は重厚な扉を、残った力で押し開けた。
***
玉座の間には、ポテトチップスの塩の香りがかすかに漂っていた。
将軍は玉座に深く腰掛け、巨大なモニターを眺めていた。画面には宇宙刑事の勇姿ではなく、すでに次の録画番組が映し出されている。将軍の手にはメローイエローの二本目が握られており、脇には空き缶が一本、無造作に転がっていた。
「あ、帰ってきた」
将軍の第一声は、それだった。
驚きも、労いも、謝罪も、そのどれでもなかった。近所のコンビニへ買い物に出ていた家人が戻ったのを認めたときの、あの気の抜けた声音である。
「……只今、戻りました」
男爵は、十センチの槍の柄を脇に抱えたまま、帝国の礼法に従って深々と頭を垂れた。
将軍はモニターの音量を少し下げ、ようやくウツボ男爵の全身に視線を走らせた。変色した表皮、半壊した顎、消滅寸前の武器。その惨状を上から下まで舐めるように確認した将軍の鼻の下が、みるみるうちに間延びしていく。岩石のごとき強面の口元がへの字に結ばれ、肩が小刻みに揺れ始めた。どう見ても笑いをかみ殺している。
「やっぱそうなったかー」
「……御意に」
「二百人いたろ?」
「……二百人おりました」
「ロボも多かったろ?」
「……四十体ございました」
「ブッ……だよなー」
将軍は深く頷き、メローイエローを一口含んだ。その所作のどこにも、己の指令がこの惨状の直接原因であるという自覚は、欠片も存在していなかった。
男爵の胸中で、何か小さな火種のようなものが揺れた。しかし彼はそれを、ウツボ特有の粘液質の忍耐力で、丁寧に丁寧に消し止めた。
「将軍、任務の報告をさせていただきます」
「あ、うん。聞く聞く」
「本日、指定座標へ空間跳躍にて強襲を試みましたが、目標座標が『春の合同ファン感謝祭』の会場と重複しており、敵戦力が当初の想定を大幅に上回っておりました。作戦の続行は不可能と判断し、撤退を選択いたしました。以上であります」
男爵は、一切の感情を排除した報告を終えた。体育座りの件は、当然省いた。
将軍は数秒、虚空を見つめた。
「今日ってそれがある日だったな」
「……ご存知でしたか」
「いやー、完全に忘れてたわ。カレンダー見て気づいたんだけど、もうお前のことワープさせた後でさ」
「……左様でございますか」
「悪かったな、一応」
「一応、ですか」
「一応」
将軍は一切の悪びれもなく繰り返した。「一応」という副詞の中に、反省の余地は一グラムも含有されていなかった。
男爵は、再び何かが胸の内で揺れるのを感じた。今度は先ほどより、少しだけ大きかった。
***
沈黙が、玉座の間に満ちた。
モニターの中では、画面の英雄が颯爽と悪を蹴散らしている。将軍はその映像に半分意識を戻しかけており、男爵との謁見が事実上の終了に向かっていることは明白だった。
男爵は踵を返し、退出しようとした。
その背中に、将軍の声が投げかけられた。
「ま、次は頑張れよ」
男爵の足が、石畳の上で止まった。
将軍が玉座の肘掛けから、一枚の封筒を無造作に差し出している。帝国の紋章で封蝋された、次なる指令書である。
男爵はゆっくりと振り返り、その封筒を受け取った。
重さは、前回と変わらない。
封蝋を破り、中の羊皮紙を取り出す。達筆な帝国文字で書かれた任務内容に、男爵の両眼が静止した。
『忌まわしき正義のレンジャーどもを、一匹残らず惨殺せよ』
前回と、一字一句変わらぬ内容であった。
男爵は羊皮紙を持つ手が、かすかに震えるのを感じた。それは怒りか、恐怖か、あるいは暗黒帝国のあまりにも学習能力のない体質に対する深い深い哀愁か、彼自身にも判別がつかなかった。
「あのー、将軍」
「ん?」
「次回の目標座標を、事前にご確認いただくことは……」
「あー、するする。ちゃんとする」
将軍は鷹揚に頷いた。
その瞳の奥に、確認という作業への具体的な意志が宿っていないことを、男爵の優れた観察眼は、悲しいほど正確に見抜いていた。
「……御意に」
男爵は再び頭を垂れ、今度こそ玉座の間を後にした。
廊下に出ると、扉の向こうから将軍がモニターの音量を元に戻す音が聞こえた。続いて、画面の英雄の主題歌が、重厚な扉越しにも聴こえてくる。将軍の鼻歌が、それに重なった。
石畳の廊下を、男爵は一人歩いた。
手の中の指令書は、前回と同じ重さだった。向かう先の座標が、今度こそ安全な場所である保証は、どこにもなかった。将軍が事前確認をするという言葉が、どれほどの重みを持つかも、男爵にはよくわかっていた。
それでも、彼は歩いた。
悪とは、究極の孤独である。
しかしそれはつまり、誰に期待することもなく、誰に裏切られることもなく、ただ自分だけの意志で、暗黒の廊下を歩き続けるということでもあった。
ウツボ男爵は、十センチの槍の柄を静かに握り直した。
次の任務が、せめて「ファン感謝祭」でないことを祈りながら。
(『怪人・ウツボ男爵の誤算』-終-)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
