地上三十階。
重役会議室は、外界の喧騒を完全に遮断した、無菌室のごとき静謐(せいひつ)に包まれていた。
長大なマホガニーの円卓を挟み、システム開発会社の窓口である沖田史郎と、業界最大手企業の役員陣が対峙している。
初老の専務を中心とした面々は、岩山のように険しい表情を浮かべ、値踏みするような双眸(そうぼう)で沖田を見据えていた。
だが、今日の沖田に死角はなかった。
彼の内奥には、深夜のネットサーフィンで偶然拾い上げた、ひとつのIT用語――もとい『神の言葉』が燃え盛っていた。
その言葉の名を、「フールプルーフ(Foolproof)」という。
人間は必ず過ちを犯す。
ゆえに、利用者がいかなる誤操作を行おうとも、決してシステムに致命的な損害を与えさせない安全設計の思想。
沖田はこの概念を知った瞬間、雷に打たれた。
これこそが、ITリテラシーに乏しい老兵たちを平伏させる魔法の呪文であると。
彼にとって「フール」とは、「Full(完全な)」や「Cool(洗練された)」に連なる高貴なシリコンバレーの概念に他ならなかった。
下唇を軽く噛み、「フッ」と息を漏らすF音の摩擦が、彼の薄弱な虚栄心を心地よく刺激していた。
沖田はレーザーポインターを優雅に振り上げ、沈黙の海へと言葉を投じた。
「皆様。次期基幹システムに求められる真の要件とは、一体何でしょうか」
堂々たるバリトンボイス。
隣の席の後輩・山下が、普段の頼りない沖田との落差に驚き、微かに肩を揺らしたのを彼は横目で捉え、己の仕上がりの良さを確信した。
「それは処理速度の向上でも、UIの刷新でもありません。我々が最も心血を注いだのは……『フールプルーフ』の徹底でございます」
その四音節は、空調の微かな稼働音しかしない空間に、ひどく場違いなほど軽やかに響き渡った。
「フールプルーフ?」
専務が太い眉を動かし、低く唸る。
「いかにも」
沖田は聖杯を見せつける騎士のごとく胸を張った。
「人間は、いかに高い役職にあろうとも、等しく過ちを犯す脆弱な存在です。我々開発者は、その原罪から皆様を救済せねばならない。この『フールプルーフ』は、システムを操作する人間を、あらかじめ『フール』であると仮定し、いかなる無軌道な操作からもシステムを守り抜く究極の哲学なのです」
沖田は両手を広げ、慈愛に満ちた聖職者の微笑みを浮かべた。
「つまり、我々は今回のシステムにおいて、専務をはじめとする皆様方ユーザーを、徹底的に『フール』であると見なして構築いたしました!」
空気が、凍結した。
会議室の気圧が急激に低下し、絶対零度のブリザードが吹き荒れる。「フール(Fool)」。それは「愚か者」「間抜け」を意味する極めて直接的な侮蔑語だ。数億円の契約金を握る役員陣の面前で「あなた方を馬鹿だと見なして作りました」と高らかに宣言したのである。
隣の山下は幽鬼のような顔色で白目を剥きかけ、テーブルの下で必死に沖田の革靴を踏みつけていた。頼むから黙ってくれ、と山下の足先は泣き叫んでいた。
だが、沖田は目の前で起きている顧客の「怒り」と、山下の「絶望」を、全く別の意味に誤訳していた。
専務の顔が赤黒く染まっているのは、深い感銘による血流の増加。役員たちが押し黙っているのは、己の不完全さを突きつけられ真理の前にひれ伏しているから。そして山下が足を踏んでくるのは、「先輩、一生ついていきます」という称賛のボディ・ランゲージであろう、と。
「皆様のその表情、痛いほどよくわかります」
沖田は、自らガソリンを被り、火の中へ飛び込んでいく。
「己が『フール』であると認めることは、最初は抵抗があるものです。しかし、どうかご安心ください。皆様がいかにフールな振る舞いをしようとも、このシステムが皆様のそのフールさを優しく包み込みます!」
「きさま……弊社を、愚か者と呼ぶか」
専務の口から怨嗟の声が漏れ、手元の高級万年筆が真っ二つにへし折られそうに軋む。
だが、その言葉すら沖田の耳には「我々の至らなさを、そこまで見抜いていたか」という感嘆に変換されていた。
「はい! まさにその通りでございます! どんなフールな入力も、見事に弾き返してご覧に入れましょう!」
沖田は自信に満ちた会心の笑みで演説を締めくくり、深く、美しく、舞台役者のような一礼をした。
会議室には、怒りを通り越した宇宙的な静寂が訪れていた。
誰一人として言葉を発せない。山下は完全に魂が抜け落ちている。
沖田はゆっくりと頭を上げ、その静寂を「圧倒的勝利」の余韻として全身で味わった。
自分がたった今、半年間の苦労と数億円のプロジェクトを虚空へ吹き飛ばしたことなど知る由もない。
そこに立つ男の姿こそが、何重の防壁をもってしても決して防ぐことのできない、完全無欠の「フール」そのものであるという真理だけが、マホガニーの机の上に冷たく横たわっていた。
(終)