《 山荘の地下室 》
凍てつく冷気が這い回る地下室の床に横たわりながら、佐藤は静かに、満ち足りた息をついた。
極度の推理小説オタクである彼にとって、人生の幕引きは単なる「死」であってはならなかった。
それは後世の好事家たちに語り継がれるべき「不可能犯罪」であり、美しき「密室殺人事件」でなければならないのだ。
佐藤はあらかじめ用意しておいた細いテグスとゼムクリップ、そして天井の梁を利用し、梁に渡したテグスの張力でナイフを胸へと打ち込む射出装置をセットした。
引き金は、指先一本で外せるゼムクリップ一つ。
自らの手でナイフを握る必要はない。
これならば刃の入射角も、傷口に残る力の痕跡も、外部からの刺突と変わらぬはずだ。
仕掛けを確認し終えると、佐藤は閂(かんぬき)をそっと下ろし、所定の位置に横たわった。
ゆっくりと引き金に指をかける。
その瞬間まで、彼の脳内は、この後に現れるであろう名探偵が頭を抱え、容疑者たちが疑心暗鬼に陥るという、様式美に溢れた情景の想像で満たされていた。
誰がどう見ても、これは完璧な他殺体として発見されるはずだ。
外部からの侵入経路は皆無。
容疑者は、この吹雪の山荘にたまたま居合わせた、彼以外の滞在客たちに限定される。
佐藤は満足げに微笑み、ゆっくりと目を閉じた。
そして、自らの役目を終えた。
***
《 ―― 3時間後 》
猛吹雪によって外界から完全に遮断された山荘。
電話線は雪の重みで切断され、携帯電話の電波も届かない。
我々はこの雪山の孤城に、完全に閉じ込められてしまった。
そんな閉鎖空間で、佐藤の遺体が発見された。
現場は山荘の地下室。
唯一の入り口である重厚な扉は、内側から頑丈な閂が下ろされた、完全なる密室だった。
私は現場を一通り確認し、滞在客たちを各自の部屋へと戻した。
証拠保全と安全確保のためだ。
幸い、この山荘には館内専用のローカルネットワークとタブレット端末がある。
私は一人、広々とした一階の居間に陣取り、タブレットを操作した。
画面には五つの枠。
苛立つ社長、退屈そうな美女、怯える大学生、皮肉げな弁護士、そして狼狽する管理人。
それぞれが短く弁明する。
「俺じゃない」「関係ない」「知らない」
——典型的だ、と私は思った。
私は彼らの反応を一通り確認し、静かに口を開いた。
「さて、皆さんの証言は伺いました」
わずかな沈黙。
「結論から言いましょう。この中に、佐藤を殺した犯人は存在しません」
画面の向こうで、空気が固まる。
「不可能犯罪を可能にする唯一の方法。それは『そもそも犯罪が存在しなかった』と仮定することです」
私は一拍置いた。
「これは自殺です」
誰も言葉を発しない。
私は淡々と続けた。
「地下室には、千切れたテグスと曲がったゼムクリップが残されていた。装置の構造上、外部から操作することは不可能です。これらを総合すれば、結論は一つしかない」
静寂。
「つまり、これは密室殺人ではなく——密室を装った自殺です」
反論はなかった。
いや、できなかった。
「……もっとも、それで終わりではありません」
私はゆっくりと、テーブルの上に一通の封筒を置いた。
「佐藤の部屋から見つかったものです」
封を切り、一文を読み上げる。
「——『この物語を最後まで読んでくれた読者は、私の共犯者だ』」
その瞬間、私はわずかな違和感を覚えた。
読者。
この状況で、その言葉は誰を指しているのか。
私は視線を上げる。
そして、タブレットのカメラレンズを真っ直ぐに見据えた。
「妙だと思いませんか?」
私は静かに言った。
「彼は“読者”の存在を前提にしている」
指を折る。
「ここにいるのは、被害者である佐藤、探偵役の私、そして五人の容疑者——計七人」
一拍。
「だが、彼はもう一人を想定している」
私はカメラの奥を見た。
まるで、その向こうに誰かがいるかのように。
「この出来事を、最初から最後まで追っている存在」
テグス。
クリップ。
密室。
「途中で違和感を覚えたはずだ」
私は一拍置いた。
「——そして、そのまま読み進めた」
暖炉の火が、小さく弾けた。
「それが、この事件の仕掛けです」
声を少しだけ落とす。
「気づきながら、結末を確かめた」
「その時点で」
静かに告げる。
「あなたは、もう観客ではない」
わずかに口角が上がる。
「——八人目の容疑者」
沈黙。
「安心してください。罪は問われません」
私は封筒を指先で軽く叩いた。
「あなたは、彼が最初から招いていた観客なのですから」
そして、静かに締めくくる。
「これで、全員が揃いました」
暖炉の火だけが、静かに燃えていた。
(終)