連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』第11話 ~白と黒の境界線~

2027.03.16 東京・新宿 『新宿駅 遺失物取扱センター』

夕方の帰宅ラッシュでごった返す新宿駅の地下通路を、須藤は周囲の迷惑も顧みずに猛ダッシュで駆け抜けていた。

息を切らして自分のセンターに飛び込み、乱暴にドアを開ける。

「……あった、これだ」

須藤は、部屋の奥にある重厚な金庫のダイヤルを回し、分厚い扉を開けた。

数ある「危険な忘れ物」が保管されている中で、一番奥の棚に、布で何重にも包まれた小さな物体が安置されていた。

包みを開くと、そこには古びた子供用の『白いスマートフォン』があった。

見た目は何の変哲もない、ただの古い端末だ。

だが、須藤がヘッドフォンをずらし、素手でその端末に触れた瞬間――。

ザザァァァァッ!!

須藤の脳内に、鼓膜を破るような強烈な『音』が流れ込んできた。

いや、ただのノイズではない。

それは、数年前にこのスマホに魂を押し込められた12歳の少年、如月淳の悲痛な叫び声だった。

『……怖いよっ! 僕、自分が怖い!』

『どうして、雪玉を投げただけで、あんな鉄球みたいに……っ。僕が化け物だからだ……』

『このままじゃ、いつかお父さんとお母さんまで傷つけちゃうかもしれない。そんなの絶対に嫌だ……!』

『神様、お願いです。僕の中から、この恐ろしい力を消してください。……僕がどうなってもいいから……!』

「……っ」

須藤は、あまりの悲痛な感情の奔流に、思わず顔をしかめ、スマホを持つ手を震わせた。

(……馬鹿野郎が。てめえは自分の身を守るためにあの悪魔に身体を売ったんじゃねえ。……両親を、てめえ自身の『力』から守るために、全てを差し出したってのか)

12歳の子供が抱えるには、あまりにも重すぎる絶望と優しさ。

その純粋さゆえに、αのような悪魔につけ込まれてしまったのだ。

「……待ってろ。今、迎えに行ってやるからな」

須藤は、白いスマートフォンを大切に上着の内ポケットにしまい込むと、再び新宿の雑踏へと飛び出していった。

***

同日 吉祥寺 『吉祥寺駅 遺失物取扱センター』

「お待たせしました。応急処置ですが、なんとか見られる状態にはなりましたね」

破壊されたカウンターの破片を片付け終え、相沢は新しく取り出した『予備の白手袋』を両手にはめ直しながら息をついた。

「ありがとうございます、相沢さん」

理沙もほうきの手を止め、簡易ベッドに寝かされている如月淳を見つめた。

「……須藤さん、急いで戻ってきてくれるといいんですけど」

ウィィィンッ!

理沙が言い終わるか終わらないかのタイミングで、自動ドアが勢いよく開き、汗だくの須藤が飛び込んできた。

「ハァッ、ハァッ……! 待たせたな!」

「須藤さん!」

須藤は荒い息を整える間もなく、内ポケットから白いスマートフォンを取り出し、相沢に差し出した。

相沢は手袋越しにそれを受け取り、目を閉じて視覚を澄ませた。

(……ええ。間違いありません。純白で、とても繊細で、優しさに満ちた光……如月君の、本当の心です)

「さあ、返してやりましょう。彼が本来いるべき場所へ」

相沢は、ベッドで眠る空っぽの少年の胸の上に、そっと白いスマートフォンを置いた。

今の如月淳の肉体は、あの禍々しいαの悪意が完全に抜け落ちた『完全な空っぽ』の状態だ。

弾かれる要素は何一つない。

スマートフォンが少年の胸に触れた瞬間、淡く温かい『純白の光』が端末から溢れ出した。

光は、水が乾いたスポンジに染み込むように、スゥッと少年の胸の奥へと吸い込まれていく。

相沢、須藤、理沙の三人は、息を呑んでその光景を見守った。

やがて、端末の光が完全に消え、ただの古い機械の塊に戻った時。

ピクリ、と。

少年の指先が微かに動いた。

「……ん、ぁ……」

ゆっくりと、長い睫毛が震え、如月淳が目を開けた。

その瞳は、少年院を出所した時の「ガラス玉のような無機質な目」でもなく、αが宿っていた時の「傲慢で邪悪な目」でもなかった。

怯えと、混乱と、純粋な感情が入り混じった、人間らしい、ただの『子供の目』だった。

「……ここ、は……? 僕、どうして……」

淳は体を起こそうとして、自分の大きな手と、長くなった手足を見てハッと息を呑んだ。

彼の精神は、あの冬の日の『12歳』のままで止まっているのだ。突然15歳の体になっていれば、混乱するのも無理はない。

「ここは吉祥寺です。君の持ち物を、お預かりしていました」

相沢が、できるだけ穏やかな、人を安心させる声で語りかけた。

「吉祥寺……? あなたたちは……」

淳は周囲を見渡し、相沢たちを見て、急に何かに気づいたようにガタガタと震え出した。

「あ、悪魔は!? 僕に話しかけてきた、あの黒いスマホの男は!?」

淳は自分の胸を強くかき抱き、ベッドの隅へと後ずさった。

「こ、来ないで……! 僕に触らないで! 僕の中には化け物がいるんだ! 雪玉を鉄の塊にして、人を傷つける……僕自身が、化け物なんだっ!!」

フラッシュバックする12歳の記憶。

自分の力への恐怖。両親を傷つけてしまうかもしれないという絶望。

淳の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

それは、「模範囚」が流した生理的な水滴ではない。心から流れる、本物の涙だった。

その痛々しい姿を見て、理沙がたまらず駆け寄り、淳を優しく抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫だよ、如月君……! もう怖くないから。悪魔はもう、どこにもいないよ」

「え……?」

「あなたが『悪い力』だと思い込んでいたものは、今はもう暴走しない。私たちと一緒に、少しずつコントロールする練習をすればいいの。あなたは化け物なんかじゃないわ」

理沙の温かい体温に包まれ、淳は目を丸くした。

「それにさ」

須藤が、ぶっきらぼうに頭を掻きながら、淳の前に立った。

「てめえが化け物なら、俺たちも全員バケモノだ。……俺は人の感情が『騒音』に聞こえるし、そこの白手袋は『色』で見える。抱きついてるお姉ちゃんは、感情を『匂い』で嗅ぎ分ける。どうだ、変態の集まりだろ?」

淳は、信じられないという顔で、須藤と相沢を交互に見つめた。

自分と同じように、他人の感情に振り回され、特別な力を持つ大人たちが、こんなに普通に、力強く目の前に立っている。

「……本当、に……?」

「ああ。だから安心しろ」

須藤はニカッと笑い、大きな手で淳の頭をガシガシと撫で回した。

「てめえは一人でよく耐えた。もう、自分の能力(チカラ)を怖がって、悪魔なんかに魂を売る必要はねえんだよ」

「……あ、うぁぁぁぁ……っ!」

張り詰めていた緊張の糸が、プツンと切れた。

淳は、理沙の腕の中で、12歳の子供のように声を上げて泣きじゃくった。

何年分もの恐怖、孤独、そして両親に会いたいという純粋な想いが、涙となって溢れ出していく。

相沢は、その温かい泣き声を静かに聞きながら、窓の外を見た。

すっかり日は落ち、吉祥寺の街には柔らかな夜の灯りが灯り始めていた。

「……さて。あとは、彼を帰るべき場所へ送り届けるだけですね」

長く、苦しかった少年の悪夢が、ようやく終わろうとしていた。

連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
(第12話 最終話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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