連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』第12話(最終話)~温かいスープ~

2027.03.16 夜・品川 『Le Miroir』

「CLOSE」の札が掛けられた、高級フレンチレストラン『Le Miroir』。

普段ならディナータイムで賑わうはずの店内は、今夜は貸し切り状態となり、静けさに包まれていた。

「……淳っ!」

エントランスに駆け込んできたのは、息を切らした初老の男女――如月淳の両親だった。

「息子さんがこちらでお待ちです」と連絡を受け、慌ててタクシーで駆けつけた彼らの目に飛び込んできたのは、ダイニングテーブルにぽつんと座る息子の姿だった。

だが、両親は足を止めた。

息子の雰囲気が、今朝家を出た時と全く違っていたからだ。

「……お母さん。お父さん」

淳が、椅子から立ち上がった。

完璧な作り笑いを浮かべた「模範囚」ではない。

戸惑い、申し訳なさそうに身を縮め、ボロボロと大粒の涙をこぼすその表情は――あの事件を起こす前、優しくて泣き虫だった『12歳の息子』そのものだった。

「ごめんなさい……っ。僕、怖いことから逃げ出して、お父さんたちに、いっぱいいっぱい、悲しい思いをさせて……っ」

三年間、別の何者かに身体を奪われていた空白の時間。

自分のせいではないとはいえ、両親に心配をかけたという事実は、純粋な少年の胸を激しく締め付けていた。

「淳……? あなた、本当に……淳なの……?」

母親が震える声で尋ねる。

「うん……っ。ただいま……」

その言葉を聞いた瞬間、母親はハンドバッグを床に取り落とし、駆け寄って息子を力強く抱きしめた。

「ああ……あああっ! 淳……! おかえりなさい、おかえりなさい……ッ!」

父親もまた、堪えきれずに涙を流し、妻と息子の肩を不器用に、しかし力強く抱き寄せた。

「よく帰ってきた……。もう、何も言わなくていい。お前が無事なら、それでいいんだ……」

三年間、ずっと失われていた『本物の家族の温もり』が、ようやく彼らの元へ戻ってきた瞬間だった。

「……失礼いたします。長旅でお疲れでしょう」

感動の再会にそっと寄り添うように、純白のコックコートを着た三浦省吾が、ワゴンを押して恭しく現れた。

「当店の、特製コンソメスープでございます」

三浦がテーブルに置いたのは、黄金色に透き通った、極上のスープだった。

相沢の強烈な「浄化」を受け、体内のあらゆる毒素や過剰な野心(ノイズ)を出し尽くした三浦。今の彼が作る料理は、奇をてらったものではない。素材の命を極限まで引き出した、ただひたすらに優しく、真っ直ぐな味わいのスープだった。

「如月君。冷めないうちにどうぞ」

少し離れた壁際から、相沢が静かに声をかけた。

その両脇には、腕を組んでそっぽを向いている須藤と、涙ぐみながらハンカチで目元を押さえる理沙が立っている。

「……いただきます」

淳は、震える手でスプーンを持ち、黄金色のスープを一口、口に含んだ。

(あ……)

淳の『視覚』と『触覚』が、スープに込められた感情を捉える。

かつて彼を苦しめていた、棘のような悪意やノイズは一切ない。

そこにあるのは、三浦が全霊を込めて作った「彼を癒やしたい」という、ポカポカとした陽だまりのような純粋な祈り(色)。

そして、両親が自分を見つめる、柔らかくて温かい愛情の気配。

「……美味しい」

淳は、スープの温かさに顔を綻ばせた。

「すごく……温かいです」

空っぽだった彼の心と身体の隅々に、優しい熱が染み渡っていく。

もう、他人の感情(ノイズ)を恐れる必要はない。

自分の力も、同じように特異な感覚を持つ相沢たちが「コントロールの仕方を教える」と約束してくれた。自分は一人ではないのだと、ようやく心の底から安心することができた。

「……よかったですね」

その光景を見届けて、相沢は静かに微笑んだ。

「さて、私たちはそろそろお暇(いとま)しましょうか。吉祥寺のセンターは半壊状態ですし、片付けの続きが残っていますから」

「ハッ、全く誰のせいだと思ってんだ。残業代はたっぷりふんだくってやるからな!」

須藤が肩をすくめながら悪態をつく。

「あの、相沢さん、須藤さん、理沙さん!」

店を出ようとした三人の背中に、淳が声をかけた。

両親と共に深く頭を下げる。

「本当に、ありがとうございました! 僕……絶対に、この能力(チカラ)に負けないくらい、強い大人になります!」

その決意に満ちた声に、三人は振り返った。

「ええ。期待していますよ、如月君」

相沢は、新調した真っ白な手袋のシワを伸ばし、完璧な礼で返した。

「……たまには新宿にも顔出せよ、坊主! 次は迷子になるんじゃねえぞ!」

須藤がニカッと笑って片手を挙げる。

「いつでも巣鴨に遊びに来てね!」

理沙が満面の笑みで手を振った。

彼らは、夜の品川の街へと歩き出す。

春一番が過ぎ去り、少しだけ温かさを増した夜風が、三人の間を心地よく吹き抜けていった。


「相沢、次はもっとまともなモン拾えよな」

「それは須藤さんも同じでしょう。お互い、管理者の腕の見せ所ですね」

「へっ、言うじゃねえか」

「ふふっ。私も巣鴨で、お二人に負けないくらい頑張りますからね!」

「馬鹿野郎、お前はこれ以上頑張らなくていい! またキャパ超えて暴走されたら堪んねえからな!」

須藤の容赦ないツッコミに、理沙が「もう、ひどいですよ!」と頬を膨らませ、相沢が静かに微笑む。

他人の感情という、厄介で、美しく、時におぞましい「忘れ物」。

彼らはこれからも、それぞれのセンターで、迷える心たちを本来あるべき場所へと返し続けるのだろう。

『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』―― 完 ――


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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