この文章にはトリックが含まれています。騙されないよう、気をつけてください。
明日から僕のデスクに座る新入社員の君へ。
まずは配属おめでとう。
僕の突然の異動で、直接引き継ぎができなくて申し訳ない。
業務のマニュアルはこの共有フォルダに入っているけれど、その前に、君の隣の席に座る先輩について、少しだけ心構えを伝えておくね。
荻原先輩は、ひと言で言えば「仕事の鬼」だ。
朝は誰よりも早く出社して、いつも眉間に深いシワを寄せながら、冷めたブラックコーヒーをお供にモニターを睨みつけている。雑談の輪に入ってくることはめったにないし、お昼休みも自分のデスクで栄養ゼリーを流し込んで、すぐにキーボードを叩き始める。
正直、最初は少し怖いと思うかもしれない。荻原先輩がタイピングしている間は、彼女のデスク周辺だけ温度が2度くらい低いんじゃないかと思うほど、ピリピリとした空気が漂っているからね。
でも、どうか安心してほしい。
萩原先輩はとても面倒見が良くて、本当に優しい人だから。
昨日なんて、休日に焼いたという手作りのマドレーヌを、わざわざ部署の全員に配って回っていたくらいだ。最近はよく鼻歌を歌いながら給湯室で甘い紅茶を淹れているし、彼女のその明るい笑顔を見ると、こちらの心までパッと晴れやかになる。左手の薬指にはめた真新しい指輪を、うれしそうに指でなぞる癖もなんだか可愛らしい。
もし仕事で行き詰まることがあったら、遠慮せずに彼女に声をかけて頼るといいよ。
荻原先輩のストイックな厳しさと、もう一方の彼女の温かい優しさは、これからこの部署で頑張る君にとって、きっと一番の道しるべになるはずだから。
……というわけで、以上がこの部署のざっくりとした人間模様だ。
さて、明日から僕のデスクに座る新入社員の君。
この引き継ぎノートの冒頭に書いた『トリック』、見破れたかな?
「荻」原先輩と、「萩」原先輩。
草冠の下が違うだけの、よく似た名前。君はきっと、正反対の性格をした二人の先輩がいると思ったはずだ。あるいは「なるほど、同一人物に見せかけて実は二人いるという仕掛けだな」と得意げに笑っているかもしれないね。
でも、正解は「同一人物」なんだ。
騙されないよう気をつけてと言ったのは、デスクの引き出しに古い名刺と新しい名刺が混ざっているからだよ。
彼女は先月、五年越しに籍を入れて「萩原」になったばかりだ。
長く付き合っていた婚約者が、海外の危険な地域へ単身赴任になってね。いつ無事に帰ってくるかもわからない不安の中、彼女は悲しみを押し殺すように仕事に没頭して、必死に自分を保っていた。
僕がノートの前半で書いた、無愛想で、いつも疲れた顔をして溜息をついていた「荻原先輩」は、その張り詰めた五年間の姿だ。
そして先月、彼がようやく無事に帰国した。
緊張の糸が切れ、長年の重圧から解放された彼女は、本来の明るく朗らかな性格を取り戻した。それが、少しフワフワしていて、手作りのマドレーヌなんかを配ってくれる「萩原先輩」の正体というわけだ。
君には、ただ「明るい萩原先輩」だけを見てほしくなかったんだ。彼女の今のあの笑顔は、五年間の寂しさと孤独を一人で耐え抜いて、ようやく手に入れたものなんだよ。
たまに彼女が、薬指の真新しい指輪を見つめながら泣きそうになっていることがあるかもしれない。でも心配はいらない。あれは安堵の涙だ。もう、見るたびに胸が痛むことはないのだから。
君の目の前にいるのは、ただの浮かれた新婚さんじゃない。誰よりも強くて優しい、僕らの尊敬する先輩だ。彼女のこれからの「萩原」としての幸せな日々を、どうか僕の代わりに温かく支えてあげてほしい。
引き継ぎは以上。
明日からの君の活躍を祈っている。
(了)