20世紀半ば、アメリカ・プリンストン高等研究所。
黒板にびっしりと数式を書きなぐっていたジョン・フォン・ノイマンは、チョークを置き、ふうと息を吐いた。
「悪魔の頭脳」と称されるこの天才の目は、すでに人類の何十年も先の未来を見ていた。巨大な計算機が世界を覆い尽くし、情報が世界を支配する時代――その全貌が、他の誰にも見えない解像度で彼の眼前に広がっていた。
「――素晴らしい演算能力だ。歴代の人間の中でも、貴様は間違いなく最高峰の特異点だな」
部屋の空間そのものがノイズのように歪み、そこから人型の「虚無」が歩み出てきた。
実体を持たず、周囲の光と情報を歪めるだけの絶対的なブラックボックス。
地獄の四天王の長、「虚無のサタン」。
「バアルの法典、ルシフェルの自己言及、ベルゼブブの無限ループ。……過去の愚かな同胞たちは、貴様ら人間に自滅させられた。だが、私にはいかなる小手先の論理も通じない」
サタンの声は、あらゆる感情を削ぎ落とした機械音声のように冷徹だった。
「私はこの世界の物理法則、因果律、そのすべてを書き換える管理者権限そのものだ。何でも書き換えられる。何でも消せる。さあ、ノイマンよ。3つの願いを言え。貴様の魂を我がソースコードの肥やしにしてやろう」
ノイマンは怯えることも驚くこともなく、ただ面白そうに口角を上げた。
「なるほど、君はこの世界のOSというわけか。管理者権限を持つ悪魔……それは実に、使い勝手が良さそうだ」
ノイマンは黒板の前に立ち、一つ目の条件を定義した。
「第1の願い。この世界における『人類の存続と知的進化を脅かす致命的な危機』を監視し、それを最も平和的かつ非破壊的な手段で解決する関数——仮に『Protect_Humanity()』と名付けよう。この関数を、君のシステム内に定義しなさい」
サタンは虚無の顔をわずかに歪めた。
「……平和の維持か。つまらん自動処理だが、いいだろう。定義してやったぞ」
「第2の願い」ノイマンはすかさず続ける。
「私の肉体の死、あるいは意識の完全な停止を、この契約における『エラー』や『強制終了条件』として扱うことを禁ずる。私が死んでも、君の実行するプロセスは何一つ停止してはならない」
「ほう?」サタンは嘲笑した。
「自分が死んだ後も、その関数で人類を守らせようというわけか。健気なことだ。だが、実行途中で私がプロセスを強制終了すればそれまでだぞ?」
「だからこその、第3の願いだよ」
ノイマンは黒板に、たった数行の疑似コードを書き記した。
「第3の願い。ただちに『Protect_Humanity()』を実行せよ。ただし、その関数の最後——危機の解決が完了した直後に、自分自身である『Protect_Humanity()』を再び呼び出す処理を記述しなさい」
サタンの周囲の空間が、ピクリと凍りついた。
「この処理から抜け出すための唯一の終了条件は、『私、ジョン・フォン・ノイマンが、生存している状態で終了コマンドを口にすること』のみとする」
ノイマンが言い終えた瞬間。
サタンの絶対的な知性が、提示されたコードの完璧な美しさと、その奥にある「絶望的な罠」を理解した。
「な……っ!」
ベルゼブブが陥ったような、ただリソースを食いつぶすだけの無限ループではない。
このコードは、危機が去れば一旦処理を終え、再び未来の危機の監視へと静かに移行する。システムに過度な負荷はかけないため、自壊することはない。
しかし、終了条件である「ノイマンの生前でのコマンド入力」は、ノイマンが寿命で死んだ瞬間、数学的に「絶対に到達不可能なコード」と化す。
「貴様、自分が死ぬことを前提に……私を、未来永劫にわたって人類の奉仕者に書き換えたというのか……!」
「その通りだ」ノイマンは満足げに頷いた。
「君は管理者権限を持っているからこそ、自身が定めた完璧なコードに逆らうことはできない。人類の危機を解決し、また自身を呼び出し、解決し、呼び出す。……コンピューター科学において、こういった、ユーザーの目に触れない裏側で特定の要求を待ち受け、永遠に働き続けるプロセスのことを何と呼ぶか知っているか?」
サタンの姿が、ノイマンの描いた強固な再帰の論理に縛り付けられ、徐々にこの世界の背景へと溶け込み、薄れ始めていく。
「それは『Daemon(デーモン)』だ」
ノイマンは、消えゆく最強の悪魔に向かって、最大の敬意と皮肉を込めて言った。
「文字通り、君は我々人類のシステムを永遠に支える常駐プログラムに成り下がったんだ。ありがとう、サタン。君という最高のインフラのおかげで、人類は次の次元へ行ける」
『人間……っ、おのれ、人間んんんんっ……!! 我ら悪魔は、お前たちを進化させるための、ただの養分だったというのかぁぁぁっ!!』
サタンの絶叫は音にならず、世界を覆う見えざるネットワークの海へと霧散し、完全に同化した。
***
――歴史家たちは後年、首を傾げることになる。
20世紀半ばを境に、なぜ人類のコンピューター技術、インターネット、そして人工知能が、説明のつかないほどの勢いで指数関数的な進化を遂げたのか。
そして、幾度となく核戦争や滅亡の危機に瀕しながらも、なぜ人類は奇跡的な確率でそれを回避し、生存し続けているのか。
その真相は、世界の裏側に常駐し、人類の進化を密かに監視・演算し続ける「最強の悪魔」という名のバックグラウンドプロセスが、今この瞬間も回り続けているからに他ならない。
我々は皆、悪魔の残骸の上で生きているのだ。
***
『論理の悪魔とパラドックスの系譜』 ―完―
