町の商店街の端にある洋食屋「キッチン・ベル」は、テーブルが四つとカウンター席だけの小さな店だ。
メニューは多くないが、琥珀色のデミグラスソースがかかったハンバーグや、バターの香りがふわりと漂うオムライスは、いつも町の人々のお腹と心を静かに満たしている。
私はこの店でアルバイトを始めて半年になるが、フライパンの心地よい音と、少しレトロな有線放送が流れるこの空間がとても気に入っていた。
金曜日の夕方六時になると、決まって来店する常連客がいる。
ロマンスグレーの髪をきれいに撫でつけた、初老の紳士だ。いつもアイロンの効いたシャツに、季節に合わせた上品なカーディガンを羽織り、背筋をピンと伸ばして入ってくる。
紳士はカウンターの一番奥に座り、おしぼりで丁寧に手を拭いた後、必ず同じ注文をする。
「オムライスを二つ。一つはここで。もう一つは、持ち帰りでお願いします」
無口な店主もすっかり慣れたもので、「はい、いつものですね」と微笑み返し、すぐに二つのフライパンに火を入れる。
紳士は、自分の分のオムライスをとても美味しそうに、ゆっくりと時間をかけて味わう。そして食べ終わる絶妙なタイミングで、店主が持ち帰り用の白いプラスチック容器を紙袋に入れて手渡す。
「いつもありがとうございます。冷めないうちにお持ちください」
「ええ、急いで帰りますよ。待っていますから」
紳士は温かい紙袋を大切そうに胸に抱え、少しだけ足早に帰っていく。
私はカウンターを拭きながら、その背中をいつも心地よい気持ちで見送っていた。
(きっと、お家で待っているのは、物静かで控えめな奥様なんだろうな)
毎週、旦那様のお土産を急かさず、自宅で静かに待っている姿。私の中では勝手に、お着物を着て静かに生け花でもしているような、しっとりとして古風なご夫婦の肖像が出来上がっていた。
そんな、昔の映画のワンシーンのような上品な二人の関係を想像しては、密かに憧れすら抱いていたのだ。
そんなある金曜日のことだった。
夕方から突然の通り雨があり、商店街の人通りはぱったりと途絶えていた。
六時少し前、カランとドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいま……」
声をかけた私は、目を丸くした。
傘を畳んで入ってきたのは、いつもの紳士だった。だが、今日は一人ではなかったのだ。
隣には、鮮やかな黄色のカーディガンにデニムを合わせ、大きな笑い声をあげる、とてもエネルギッシュな女性が立っていた。
「あらあら、すごい雨になっちゃったわねえ」
女性は快活な声で笑いながら、紳士と一緒にテーブル席へ腰を下ろした。
店主も驚いたように厨房から顔を出す。
「こんばんは。今日は、お二人で?」
すると女性は、少し申し訳なさそうに、でもとても楽しそうに言った。
「ごめんなさいねマスター、今日はテイクアウトじゃなくて、二人ともここで食べていくわ。実はね、うちのブルーレイレコーダーが壊れちゃって!」
「レコーダー、ですか?」
オシボリを持っていった私が思わず聞き返すと、女性はパッと私の方を向いてウインクをした。
「そう。私ね、金曜日の夜は『絶対に家事しないキャンペーン』を実施しているの。お風呂から上がったら一番楽なスウェットに着替えて、スナック菓子をつまみながら録画したお笑い番組を観て、夫が買ってきてくれるこのお店の絶品オムライスを待つ。それが一週間で一番の楽しみなのよ!」
女性は豪快に笑いながら、さらに言葉を続けた。
「でも今日はテレビが観られないから、家でスウェット姿で待機している理由がなくなっちゃって。それなら出来立てを食べにお店に行こうって、大急ぎで着替えてきたのよ」
「もう、家を出るまで大騒ぎだったんですよ」
紳士が苦笑いしながら肩をすくめた。
「いつも私がオムライスを抱えて帰ると、妻は玄関で待ち構えているんです。『早く早く、冷めちゃう!』ってね。私はただの、金曜日の専属デリバリー係ですよ」
「ふふっ、優秀な配達員さんで助かっているわ」
私は、自分が思い描いていた「古風でしっとりとした感動のドラマ」が、見事に打ち砕かれるのを感じた。
そこにあったのは、控えめで物静かなドラマなんかじゃない。
一週間の終わりに「何もしない」という最高の贅沢を全力で謳歌する奥様と、それを嬉しそうに手伝う旦那様の、最高にチャーミングで明るい日常だったのだ。
「オムライス、二つですね。すぐにお作りしますよ」
店主も肩を揺らして笑いながら、フライパンにバターを落とした。
ジュワッという心地よい音と一緒に、甘く香ばしい匂いが店内に広がっていく。
「あーあ、来週までには新しいレコーダーを買わなくちゃ」
「明日、一緒に電気屋に行こうか。ついでに美味しいケーキでも買って帰ろう」
楽しそうにメニューを眺めるお二人にお冷を注ぎながら、私は深く息を吸い込んだ。
しっとりとした映画のような絆もいいけれど、こういう陽気で飾らない夫婦の形も、負けないくらい素敵だなと思った。
(了)