短編小説『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』【第7・8部〈完結〉】

【第7部:善意の捜索隊】

《 ――アパート「コーポ・リバーサイド」203号室 》

「開けてください! 水上先生!」
「警察はまだか! 先生を保護しろ!」

ドアチェーンが悲鳴を上げている。

外の廊下には、スマートフォンのライトと、配信用のカメラのレンズが埋め尽くしていた。

彼らの目には正義の炎が宿っている。

自分たちは物語の登場人物であり、囚われの姫(作家)を助け出す騎士なのだと信じ切っている目だ。

「やめてくれ……ここには僕しかいない! 監禁なんてされていない!」

水上はドア越しに叫んだ。だが、その声は彼らの熱狂にかき消される。

「聞こえましたか!? 『監禁されていない』と言わされています!」
「犯人が近くにいて脅しているんだ!」
「今助けますからね!」

ガチャン!

古いドアチェーンが弾け飛び、鉄の扉が開いた。

雪崩れ込んでくる人々。眩しいフラッシュ。無数の「大丈夫ですか!」という怒号。

水上は部屋の隅に追い詰められ、膝を抱えた。

「犯人はどこだ!」

YouTuberらしき男が、狭いユニットバスや押入れを荒々しく開ける。

だが、そこには誰もいない。あるのはコンビニ弁当の空き箱と、薄汚れた布団だけ。

「……いない?」
「逃げたのか?」
「いや、先生が一人でいるはずがない。あの小説には『監視されている』って書いてあったぞ」

彼らは困惑し、そしてすぐに都合の良い解釈(誤読)を見つけ出した。

一人の女性ファンが、涙ぐみながら水上の手を握る。

「可哀想に……。犯人が怖くて、一人だと思い込まされているんですね。もう安心ですよ。私たちが、先生の本当の『居場所』を見つけたんですから」

水上は絶望した。 言葉が通じない。

彼らは目の前の「生身の人間(水上悟)」を見ているのではない。

スマホの画面越しの「悲劇の作家」というキャラクターを見ているのだ。

その時、遠くからサイレンの音が近づいてきた。

***


――警察署・取調室》

騒動は警察の介入によって鎮圧された。

水上は「保護」という名目で、警察署の一室に連れてこられた。

皮肉なことに、鉄格子のついた窓のある、殺風景な部屋だった。

「……落ち着きましたか、水上さん」

対面に座った刑事は、疲れた顔でコーヒーを差し出した。前回の監禁事件を担当した刑事だった。

「あの騒ぎを起こした連中は全員退去させました。あなたの今の住居はネットで拡散されすぎてしまった。もうあそこには住めないでしょう」

「……僕は、書いていません」

水上は震える手で紙コップを握りしめた。

「あの続編は、僕が書いたんじゃない。でも、僕にしか書けない文章なんです。信じてもらえないかもしれませんが……」

「信じますよ」

刑事は短く答えた。そして、一束の資料をテーブルに置いた。

「我々も、あの小説がどこから投稿されたのか捜査しました。IPアドレスを辿り、投稿者を特定しました」

「誰なんですか。僕を追い詰めたのは」

「大手の出版社に勤務する、入社3年目の若手編集者でした。あなたの担当だった、江崎修の元部下です」

「江崎の……?」

「その男を聴取しました。彼は悪びれることもなく、こう供述しています。『自分はただのタイプライターだ』と」

刑事は、信じがたい事実を口にした。

「原稿の出所は、刑務所の中です」

「刑務所……?」

水上の思考が停止する。

「馬鹿な。江崎は服役中ですよ。ネット環境なんてあるはずがない」

「ええ。ですが、面会は可能です」

刑事は苦々しい顔で説明を続けた。

「その若手編集者は、毎週のように江崎の元へ面会に通っていました。そこで江崎は、アクリル板越しに『口頭』で小説を伝えていたのです」

「口頭で……?」

「江崎は、一言一句、句読点の位置まで完璧に暗記した物語を、面会時間の許す限り部下に読み聞かせた。部下はそれを速記し、帰宅してからパソコンで清書してアップロードしていた。……執念としか言いようがありません」

水上の背筋に、氷のような冷気が走った。

江崎は、塀の中にいながら、言葉だけで外の世界を操作していたのだ。

水上がどこに隠れようとも、江崎は水上の思考パターンを完全に掌握し、『水上ならこういう場所に住むだろう』という予測に基づいて物語を構築した。

そして、その予測があまりにも正確だったために、ネットの特定班が「正解」を導き出してしまったのだ。

「あなたへの伝言を預かっています」

刑事は手帳を開き、その言葉を読み上げた。

『……続きは、まだありますよ。』

水上は頭を抱え、絶叫した。

逃げ場はない。

たとえ物理的な距離がどれだけ離れていようと、江崎修という編集者は、水上悟という作家の脳内に巣食っている。

彼が「書け」と念じれば、世界そのものが水上を追い立て、ペンを握らせようとするのだ。

「もう、嫌だ……」

取調室の冷たい壁に、水上の嗚咽が虚しく反響した。

***

【第8部(終章):完全版】

東京拘置所・面会室。

アクリル板の向こう側で、囚人服を着た男は、まるで校了直後の編集者のように晴れやかな顔をしていた。

江崎修。

獄中から、作家の人生を『校正(操作)』した男。

「なぜ、あんな真似をした」

刑事が問いただす。

「君のせいで、水上さんは住む場所を失い、精神的に追い詰められた。これは立派なストーカー行為であり、脅迫だ」

江崎はきょとんとして、首を傾げた。

「追い詰めた? とんでもない。私は彼を『救済』したのです」

彼は細長い指を組み、愛おしそうに語り始めた。

「刑事さん。作家にとっての死とは何だと思いますか? 心臓が止まることではありません。『書けなくなること』です。 水上くんは、自分の意思で筆を折ろうとしていました。それは自殺と同じです。私は担当編集者として、みすみす作家が死ぬのを黙って見ているわけにはいかなかった」

「だからといって、彼になりすまして勝手に続きを書く権利など……」

「権利?」

江崎は嗤(わら)った。

冷たく、しかし確信に満ちた笑みだった。

「私は彼以上に、彼を理解しています。彼の思考、語彙、癖、その魂の形に至るまで、すべて私の頭の中にある。 彼が書けないのなら、私が出力すればいい。それは贋作(フェイク)ではない。私が書いたものこそが、彼が書くべきだった『正史』なのです。 ほら、読者もあんなに喜んでいるじゃありませんか」

江崎はアクリル板に掌を当てた。

「水上悟という座標は、もはや肉体を持った彼のものではありません。 『水上悟』という概念は、私の管理下(ここ)にあるのです」

***


数ヶ月後。

書店・新刊コーナー。

都内の大型書店の平積み台は、ある一冊の本で埋め尽くされていた。

『緑柱石(ベリル)の谷・完全版』 著:水上 悟 / 編:江崎 修

帯には、煽情的なキャッチコピーが踊っている。

『獄中からのラブレター。二つの魂が紡いだ、奇跡の最終章』
『映画化決定! 全米が涙した真実の愛』

世間は、この異常な出版経緯を「スキャンダル」ではなく「伝説」として受け入れた。

「編集者が獄中で口述筆記させた」という狂気のエピソードさえも、作品の神格化に一役買ったのだ。

本は飛ぶように売れていた。

レジには行列ができ、若い女性たちが「江崎さん尊い」「やっぱりこの二人は運命だ」と囁き合っている。 その行列の脇を、一人の男が通り過ぎる。

くたびれたコートを着た、痩せた男だ。

かつて水上悟だった男は、立ち止まり、積み上げられた本の山を見つめた。

表紙には、美しい「塔」の絵が描かれている。

それはかつて自分が監禁されていた場所であり、今は江崎がいる場所のメタファーであり、そして大衆が求める『聖域(サンクチュアリ)』の姿だった。

男は震える手で、一冊の本を手に取った。

ページをめくる。

そこにあるのは、自分が書いた覚えのない、しかし自分以上に自分らしい言葉たち。

最後のページ。

物語の結末で、主人公はこう独白していた。

私はもう、どこへも行かない。 この塔こそが、私の世界の全てなのだから。

それは、江崎による「完了」の宣言だった。

お前はもう逃げなくていい。

書かなくていい。

お前の名前も、才能も、人生も、すべて私が引き受けた——。


男は本を棚に戻した。

周囲の人間は、誰もこのみすぼらしい男が「本物」であることに気づかない。

いや、ここにいるのはもう、抜け殻だけなのだ。

「……完敗だ」

男は小さく呟いた。

その声は、書店のBGMと喧騒にかき消された。

彼は出口へと向かう。

外には、彼が自分の足で歩くべき地面(地図)など、もうどこにも残されていなかった。

街の巨大モニターには、続編の映画の予告が流れている。

美化された俳優の「水上悟」が、スクリーンの中で幸せそうに微笑んでいた――。

(『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』 -完-)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

サスペンス・ホラー小説『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』シリーズ(全8部)
ファンタジー小説の描写は、実在する「監禁現場」の座標だった。ネットの特定班が暴いた事件の裏で、作家の人生を支配する狂気の編集者が牙を剥く。現実と虚構が交錯する予測不能のサイコスリラー短編『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』全8話まとめ。