暗黒帝国の最深部。光すら逃れられぬ虚無を凝縮したかのような玉座の間で、悪の最高司令官たる将軍は、ふと手元の卓上カレンダーに目を落とした。
赤丸の付いた「4月4日」の真下、『春の合同ファン感謝祭』という走り書きを見た瞬間、将軍の岩石のごとき強面(こわもて)に、ある種の「愛嬌」と「致命的な過失」が同居した奇妙な亀裂が走った。
「あ、やべー。やっちったー」
瘴気を纏う帝国の首領の口から漏れたのは、およそ悪の絶対者には相応しくない、気の抜けた炭酸水のような独白であった。
今日が「あの日」であることを、彼は完全に忘却していたのだ。
年に一度、次元の壁と大人の事情を越え、過去数十年にわたる無数の「正義の戦士たち」が一堂に会する、特撮界における祝祭の特異日。よりによってそのグラウンド・ゼロのど真ん中へ、先ほど「レンジャーどもを一匹残らず惨殺せよ」と、勢いよくウツボ男爵をワープさせてしまったのである。
将軍は、装甲に覆われた右手の拳で己の側頭部をコツンと軽く叩き、禍々しい牙の間から舌をぺろりと覗かせた。
もしこの瞬間を帝国の臣民が見ていれば、あまりの威厳の崩壊に集団自決を選んでいたかもしれない。しかし、絶対的な権力者とは得てして、己の決定的なミスを前にした時ほど、驚くほど無責任な自己防衛機能を働かせるものである。
将軍は、重厚なマントを翻して玉座に深く腰掛け直すと、先ほどまでの僅かな良心の呵責を、ブラックホールのごとき虚無の中へあっさりと放り投げた。
「ま、いっかー。ウツボだし」
その一言は、あまりにも冷酷な真理であった。
暗黒帝国のヒエラルキーにおいて、彼の地位は決して高くはない。深海の泥をすする程度の生態系から引き上げられた、言ってしまえば「数合わせの中堅怪人」である。軍団を統べる参謀怪人や、英雄の影絵のごとき漆黒の仮面剣士であれば、将軍も多少は焦ったかもしれない。だが、相手はウツボである。全体的にぬめぬめしており、拭いがたい『平場(ひらば)』の空気を漂わせている、あのウツボなのだ。
「春の在庫処分としては、妥当なラインだな」
将軍は極めて資本主義的な納得の仕方で己を許した。
そして将軍の優れた想像力は、今この瞬間、二百人の正義の戦士と四十体の巨大ロボットの只中に単騎で放り込まれているであろう部下の惨状を、鮮明に描き出し始めた。
「フフッ……ウツボのやつ、さぞ驚いただろーなー」
将軍の口から、無邪気な、本当に心底楽しそうな笑いが漏れた。
彼は想像した。あの滑稽な二重顎をカタカタと震わせ、圧倒的な暴力の祭典を前にして体育座りで震える部下の姿を。
それは、悪の首領としての残虐性というよりも、同僚をドッキリ番組に陥れた大学生のような、極めて低俗で純粋な娯楽の消費であった。将軍は壁に手を突き一人で肩を揺らして笑った。ウツボ男爵の命運など、すでに彼の脳内では「スターどっきり(秘)報告の手持ちの看板『大成功!!』」へと変換されていた。
ひとしきり笑い終えると、将軍は大きく伸びをした。
ウツボという些細な案件が頭から消去されたことで、彼のスケジュールにはいくばかりかの「空白の午後」が誕生したのだ。
「さてと……」
将軍は玉座の肘掛けに備え付けられたリモコンを手に取り、帝国のメインモニターを起動させた。映し出されたのは、地球の滅亡計画でも、次なる刺客のリストでもなかった。
「あ、そうだ。録画してた『ギャバン』見よーっと」
宇宙の真理をも掌握せんとする悪の首領は、鼻歌交じりでテレビデオの再生ボタンを押した。
モニターに「宇宙刑事」の勇姿が映し出され、軽快な主題歌が玉座の間に響き渡る。将軍は備蓄しておいたポテトチップスを開封し、メローイエローのプルタブを引き抜いて、完全にリラックスした姿勢で画面に見入った。
遠く離れた特撮の採石場で、哀れなウツボ男爵が四十体の巨大ロボットによる理不尽な「地ならし」の直撃を受け、地球の塵と消えるその瞬間まで。
将軍の平和で満ち足りた午後のひとときは、誰にも邪魔されることなく続くのであった。
(第5話 最終話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

