2027.01.03 品川 『Le Miroir』個室(復旧中)
「……う、うぅ……」
三浦省吾が目を覚ました時、そこは瓦礫の山……ではなく、綺麗に片付けられた個室だった。
散乱していた椅子の残骸や剥がれた壁紙は、リアムが店のシステムをハッキングして手配した業者が、すでに撤去と修復を終えていた。
「気がついたか、食いしん坊」
見下ろしているのは、不機嫌そうに焼き鳥を齧(かじ)っている須藤だ。
その横には、心配そうに覗き込む理沙と、呆れ顔でタブレットを操作しているリアムがいる。
「私……は、一体……?」
三浦は体を起こそうとして、自分の体の変化に気づいた。
軽い。
あの、常に飢えていた胃袋の不快感が消えている。
全身を支配していた「もっと力が欲しい」という焦燥感も、嘘のように静まっていた。
「デトックス完了ってとこね」
リアムが画面を見ながら言った。
「あの『白手袋』、すごいよ。アンタの体内コードを強制的にフォーマット(初期化)したみたいだ。これまでのログもキャッシュも全部クリア。……今のアンタは、出荷状態の『ただの人間』だよ」
「……ただの、人間……」
三浦は自分の掌を見つめた。
黄金色のオーラも、ギラギラした欲望も、もう見えない。
あるのは、長年包丁を握り続けてきた、タコだらけの無骨な職人の手だけだ。
「……ふっ。……ははっ」
三浦は力なく笑った。
空腹だった。
だが、それは「感情」を求める飢えではない。
ただの、温かいスープとパンを求める、人間として当たり前の空腹だった。
「……悪い夢を見ていたようです」
三浦は深々と頭を下げた。
その顔には、憑き物が落ちたような、静かな知性が戻っていた。
「ご迷惑をおかけしました。……そして、ありがとうございました」
「ケッ。礼なら俺じゃなくて、その手袋の主に言いな」
須藤は、床に落ちていた唾液まみれの白手袋を、つま先でチョイと蹴った。
「そいつはやるよ。よく洗って使いな。……二度と、変なモン拾い食いすんじゃねえぞ」
「……はい。肝に銘じます」
三浦は、その汚れた手袋を、まるで宝物のように両手で拾い上げた。
***
――2ヶ月後 2027.03.10 吉祥寺
春の気配が近づく吉祥寺。
駅の北口。若者の流行と昭和の風情が入り混じる雑踏から、一本外れた通路。
喧騒が嘘のような静寂が広がるその奥、『吉祥寺駅 遺失物取扱センター』の看板の前で、一人の男が立ち尽くしていた。
三浦省吾だ。
あれから2ヶ月。
彼は店の営業を再開し、一人の料理人として、誠実に食材と向き合い直していた。
着崩れのない完璧なスーツの襟を正し、手には、綺麗に洗濯され、アイロンがけされた「白手袋」が握られている。
(……怖い)
かつて品川で「魔王」気取りだった彼は、今、生まれたての子羊のように震えていた。
あの日、去り際に須藤に言われた言葉が蘇る。
『おい、もし今後、どうしても処理できねえヤバイもん拾っちまったら……吉祥寺へ行け。あそこには「鬼」がいる。……くれぐれも、失礼のないようにな』
あの暴君・須藤をして「鬼」と言わしめる存在。
そして、自分を一撃で浄化したこの手袋の持ち主。
三浦は意を決して、ドアをノックした。
コン、コン。
「……どうぞ」
中から聞こえたのは、拍子抜けするほど穏やかで、澄んだ声だった。
三浦は恐る恐るドアを開けた。
「……あのー、すみません……」
部屋の中には、紅茶の香りが漂っていた。
カウンターの奥に、一人の男が座っている。
白衣のように真っ白なスーツ。銀髪に近い白髪。そして、全てを見通すような穏やかな瞳。
「ああ、お待ちしていましたよ」
相沢は、読んでいた文庫本を閉じ、ゆっくりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、三浦は本能で理解した。
この男は、自分とは次元が違う。
自分が「捕食者」だとしたら、この男は「管理者」だ。
「……品川の、三浦です。……須藤さんから、こちらを紹介されて……」
三浦は直立不動で、脂汗を流しながら自己紹介した。
「ええ、聞いています。改心されたそうですね」
相沢は優雅に紅茶を啜った。
「それで? 今日は『お詫び』に来たのですか? それとも……『相談』ですか?」
相沢の視線が、三浦が持っている「黒いアタッシュケース」に向けられた。
三浦はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……はい。実は……あれ以来、私は忘れ物の感情を食べずに、きちんとお客様にお返ししているのですが……」
三浦は震える手で、ケースをカウンターに置いた。
「これだけは……どうしても、私の手には負えなかったのです」
三浦の目には、隠しきれない怯えが浮かんでいた。
「返せば大変なことになる気がして……でも、店に置いておくのも恐ろしくて……。もう、どうすればいいのか分からなくて、ここに逃げ込んできたのです」
「ほう」
三浦がケースを開けた。
そこに入っていたのは、画面にヒビが入った、**「古い型の黒いスマートフォン」**だった。
電源は入っていない。ただの黒い板に見える。
だが、そこから立ち上る「感情」は、異様だった。
三浦の『視覚』でも直視できないほど、冷たく、鋭く、そして甘美な――。
「……『愉悦』と、『無差別の殺意』です」
三浦は声を震わせた。
「これを落とした持ち主は……人間ではありません。人の形をした、何か別の……」
相沢は、白手袋越しにそのスマートフォンに触れた。
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
相沢の眉が、わずかに動く。
(……底がない。理由(わけ)もない。ただ純粋に、壊すことを楽しんでいる……)
それは、未練や執着といった「人間らしい重さ」が欠落した、透明な悪意だった。
「……なるほど。これは貴方でも消化できないはずです」
相沢は静かにスマートフォンをケースに戻し、蓋を閉じた。
「お預かりしましょう。これは、ただの忘れ物ではありません」
相沢は立ち上がり、窓の外を見上げた。
春一番の強い風が、窓ガラスをガタガタと揺らしている。
「……どこかに、とんでもない怪物が潜んでいるようです」
「か、怪物……ですか?」
「ええ。この悪意には『体温』がない。……今年は、荒れた春になりそうですね」
相沢の瞳には、まだ見ぬ脅威への静かな警戒色が宿っていた。
品川で見つかった一つの「種」が、やがて遠く離れた吉祥寺を巻き込む大樹へと育つことを、彼らはまだ知らない。
連載小説『感情の忘れ物5 品川・三浦省吾編』-完-
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

Next Season…
連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
「……この悪意には『体温』がない」
吉祥寺のセンターに持ち込まれた、ひび割れた黒いスマートフォン。
そこに込められていたのは、人間らしさが完全に欠落した“純度100%の悪意”だった――。
持ち主は、少年院を最短で出所した「空っぽ」の模範囚。
底知れぬ闇を抱えた少年が相沢のもとを訪れた時、かつてない最悪の怪物が目を覚ます!
暴走する純粋な殺意に、崩壊寸前となる吉祥寺の防衛戦。
能力者たちの極限の頭脳戦と、あの“美食家”も巻き込んだ予測不能の事態が待ち受ける!
息をもつかせぬ怒涛のダークサスペンス、新章開幕!お見逃しなく!
