2027.03.10 東京・吉祥寺
春一番の強い風が、窓ガラスをガタガタと揺らしていた。
吉祥寺駅の雑踏から外れた静かな一角にある『吉祥寺駅 遺失物取扱センター』。
紅茶の香りが漂う静謐な室内で、二人の男が、カウンターの上に置かれた一つの物体を挟んで対峙していた。
黒いアタッシュケースの中に鎮座する、画面にヒビが入った古い型の黒いスマートフォン。
持ち込んだのは、品川の高級フレンチレストラン『Le Miroir』の総料理長、三浦省吾だ。
彼の手は微かに震え、完璧にセットされた髪の額には、じっとりと脂汗が滲んでいた。
「……なるほど。これは貴方でも消化できないはずです」
真っ白な手袋をした相沢が、静かにスマートフォンの横から手を離した。
「この悪意には『体温』がない。……未練や執着といった、人間らしい重さが完全に欠落しています」
「ええ……」
三浦はゴクリと唾を飲み込んだ。
「これを忘れていったのは、一組のご夫婦でした。予約のお名前は『如月(きさらぎ)』様。息子の誕生日祝いだと言って、三人分の席を予約されていました」
三浦の脳裏に、数日前の光景が蘇る。
上品だが、どこかくたびれた様子の夫婦。彼らは空席になったテーブルに、ご子息の代わりにこのスマートフォンをそっと置いた。
「息子さんは、現在遠方の『全寮制の更生施設』……つまり少年院に入っており、会うことができないそうです。ご両親は涙ながらに語っていました。『あの子は根は優しい子なんです。向こうでは模範生で、もうすぐ出所できる』と。いまだに、息子さんが犯した罪が信じられない様子でした」
相沢は黙って耳を傾けている。
「そして、息子さんが警察に連行される直前、ご両親にこのスマホを託したそうです。『これは僕の分身だ。僕が帰るまで、片時も離さず持っていてほしい』と……」
「……お守り代わりに、ですか」
「ご両親はそう信じていました。ですが、食事の途中で、お母様が感極まって体調を崩されて……。慌てて店を出られた際、このスマホだけがテーブルに取り残されたのです」
三浦は忌々しそうに、黒いスマートフォンを睨みつけた。
「私はすぐに追いかけようとして、これを手に取りました。……その瞬間です。私の全身の毛が逆立ちました」
三浦の『視覚』が見たもの。
それは、更生を誓う少年の魂などではなかった。
表面をご両親の「愛情」という美しいコーティングで偽装しながら、その内部でドロドロと脈動する、強烈な**「生きた感情」**。
「……**『愉悦』と『無差別の殺意』**です」
三浦は声を震わせた。
「他人の人生を破壊し、絶望させることを無上の喜びとする、純度100%の悪意。……そして何より恐ろしかったのは、そこに『迷い』や『葛藤』といった人間らしい感情が一切混ざっていなかったことです。ただただ、壊すことだけを目的としたような、冷たくてどす黒い塊でした」
「自分の邪魔になる『悪意』を、極限のストレス下で無意識に強く切り離してしまったのでしょう……」
相沢は目を細めた。
彼もこれまで、多くの一般人が「抱えきれない感情」を無意識に落としていくのを見てきた。この少年もまた、自身の強大すぎる「悪意」を持て余し、この端末に置き去りにしたのだと、相沢は解釈した。
相沢は静かにアタッシュケースの蓋を閉じた。
パタン、という乾いた音が部屋に響く。
「お預かりしましょう。本来、忘れ物は持ち主に返すのが私の信条ですが……これは別です。彼が大人になり、自分の『闇』と向き合い制御できるほど成熟するまで、ここで厳重に保管します」
「お、お願いします。もしこんなものが野に放たれたら……」
三浦は心底安堵したように、大きく息を吐き出した。
その時だった。
相沢の静かな、しかし鋭い視線が、三浦の目を射抜いた。
「……ところで、三浦さん」
「は、はい」
「これをここまで運んでくる間、まさか……**『味見』**などはしていませんよね?」
ビクッ。
三浦の肩が、不自然に跳ねた。
「あの時、須藤さんにこっぴどく叱られたはずです。拾い食いはしないと。……このスマートフォンから漂う感情は、あなたのような『美食家』にとっては、抗いがたいほど魅惑的な毒の匂いがしたはずですが」
三浦の心臓が、早鐘を打った。
(……バレているのか?)
三浦の脳裏に、店でスマートフォンを拾い上げた直後の記憶がフラッシュバックする。
『愉悦』と『無差別の殺意』。
それは、彼が今まで味わったことのない、底なしの暗闇の味だった。
恐怖で震え上がりながらも、三浦の「食欲」は、理性を一瞬だけ凌駕してしまったのだ。
(ほんの一舐めだけ……影響が出ない程度に、表面のコーティングだけを……)
彼は、誰もいないダイニングで、その黒いスマートフォンにこびりついていた感情の飛沫を、我慢できずにほんの一口だけペロリと舐め取ってしまっていた。
今のところ体調に悪影響はない。むしろ、力がみなぎるような感覚すらあった。
だが、そんなことをこの「管理者」の前で言えるはずがない。怒られるに決まっている。
「し、していません! 誓って!」
三浦は裏返りそうな声で、必死に首を振った。
「あんなおぞましいもの、口に入れる気にもなりませんよ! 私はもう改心したんです! すぐにケースに入れて、ここに真っ直ぐ走ってきました!」
相沢は、三浦の目をじっと見つめていた。
数秒の、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、相沢はふっと微笑んだ。
「……そうですか。それなら安心しました。疑うようなことを言って申し訳ありません」
「い、いえ! 当然の確認です!」
三浦は脂汗をハンカチで拭い、そそくさと出口へ向かった。
「それでは、私は店に戻ります。ディナーの仕込みがありますので!」
「ええ。お気をつけて」
逃げるように去っていく三浦の背中を、相沢は静かに見送った。
自動ドアが閉まり、センターに再び静寂が戻る。
「……嘘をつきましたね、三浦さん」
相沢は小さくため息をついた。
三浦の舌先に、微かにあの「悪意」の残滓がこびりついているのを、相沢の目は見逃していなかった。
だが、相沢はそれ以上彼を引き止めず、追及もしなかった。
(まあ、少しお腹を下すくらいで済めば良いのですが)
これまでの経験上、どんなに強烈な感情であろうと、それはあくまで持ち主からこぼれ落ちた「エネルギーの残滓」に過ぎない。
劇薬と同じで、不用意に触れれば火傷を負うが、それ自体が物理的な害をなすものではない。あの料理人も、腹を壊して痛い目を見れば「拾い食い」の癖も直るだろう。
相沢はアタッシュケースを持ち上げると、センターの奥にある感情の保管庫へと向かった。
そして、たくさん並んでいるアクリルケースの棚の奥深くに、黒いスマートフォンを静かに安置した。
「……今年の春は、荒れそうですね」
分厚い扉を閉める乾いた音だけが、静寂の降りたセンターに重く響いた。
連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
(第2話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
