朝。結城は、いつものようにアイロンの効いた駅員の制服に袖を通し、ネクタイをしっかりと締めた。鏡に映る自分の顔を見る。定年退職を迎える六十五歳の老人の顔。深い皺が刻まれ、白髪が混じっている。だが、その表情は、ここ数十年の間で最も晴れやかで、若々しく見えた。
居間の仏壇に向かい、線香に火を灯す。写真の中で微笑む妻・小百合に向かって、結城は静かに手を合わせた。
「行ってくるよ、小百合。……今日で、最後だ」
胸のポケットには、先日保管庫の底で見つけた、彼女からの手紙が入っている。四十年間、自分を縛り付けていたと思っていた「強烈な後悔」と「妻への恨み」の重さは、彼女の海のような「愛情」と混ざり合い、すでに結城の血肉となって静かに脈打っていた。もう、重くはない。あれは、彼が小百合と共に生き、もがきながらも深く愛したという、何よりの証だったのだから。
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上野駅地下深く。『遺失物取扱センター』の磨りガラスのドアを開けると、そこにはすでに、新しい制服を着た若い男が立っていた。今日からこのセンターを任される、後任の青年だ。
「おはようございます、結城さん。……いよいよ、今日で最後ですね」
「ええ。おはようございます。引き継ぎの書類は、昨日お渡しした通りです。何か分からないことはありましたか?」
「いえ、完璧なマニュアルで助かります。ただ……」
青年は、センターの奥にある広大な保管庫の扉をチラリと見て、少しだけ肩をすくめた。
「あの保管庫、なんだかすごく『重苦しい』空気が漂っている気がして。古い物がたくさんあるからでしょうか。夜の当番の時とか、少し怖いです」
結城は、その言葉に目を丸くし、そして穏やかに微笑んだ。
「そう感じますか。……ええ、あそこには、たくさんの『重い歴史』が眠っていますからね」
この青年に、結城のような『感情の重量計(スケール)』の能力はない。ただの、真面目で誠実な一般の駅員だ。だが、能力がなくても、あの場所に積み重なった「人々の生きた証」の気配を感じ取れるのなら、きっと彼も、この場所を大切に守ってくれるだろう。
「怖がることはありませんよ」
結城は、青年の肩をポンと叩いた。
「彼らはただ、その時代を懸命に生き、迷子になってしまっただけです。あなたが誠意を持って接すれば、決して悪さはしません。……上野の地下を、頼みましたよ」
「……はい! 未熟者ですが、精一杯やらせていただきます」
青年は、背筋を伸ばして深く頭を下げた。
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午後五時。結城の、四十年にわたる遺失物取扱センターでの業務が終了した。彼は制服を脱ぎ、綺麗に畳んでロッカーに収めると、私服のジャケットを羽織った。そして、長年座り続けたカウンターの奥の、茶色い革張りの椅子を、愛おしそうに撫でた。
「結城さん、本当にお疲れ様でした」
見送りに来た同僚や駅長たちから、花束が贈られる。結城は深く頭を下げ、感謝の言葉を述べた。
そして、最後に。結城は、誰もいなくなった保管庫の分厚い扉に向かって、一人で静かに、最も深いお辞儀をした。
(……みんな。長い間、私の両手を鍛えてくれてありがとう。あなたたちの重さがあったからこそ、私は私の人生を肯定できた)
結城はゆっくりと顔を上げ、振り返ることなく、センターのドアを出た。彼の足取りに、もう迷いはなかった。
***
地下通路の階段を上り、地上へ出る。初夏の夕暮れ時。上野恩賜公園の方から、柔らかな風が吹き抜けてきた。西日に照らされた上野の街は、今日も変わらず、無数の人々の熱気と活気に満ち溢れている。
結城は、自分の両手を見つめた。太く、固く、関節の節くれた、労働者の手。
(……軽いな)
それは、これまでの人生で感じたことのない、絶対的な「軽さ」だった。四十年間、他人の重い感情を量り、代わりに背負い続けてきた。その重圧から解放され、そして何より、自分自身の「後悔の重さ」をその身に還したことで、彼の心は今、完全に『真っ白』になっていた。
真っ白であることは、決して空っぽではない。先日、吉祥寺の少年に彼自身が語ったように、それは「これからどんな重い感情でも、どんな鮮やかな色でも受け止めることができる、新しくて強靭な土台」なのだ。
結城の脳裏に、この数日間で出会った、若い能力者たちの顔が浮かぶ。
ひまわりのように無垢な、巣鴨の峰岸理沙。
皮肉屋だが真っ直ぐな、秋葉原の影山リアム。
誇りを取り戻した、品川の三浦省吾。
未来へ筆を下ろそうとする、吉祥寺の如月淳。
不器用な優しさを隠し持つ、新宿の須藤陸。
そして、彼らを導き、深い覚悟で街を守る、吉祥寺の相沢。
(……相沢君。君たちはこれからも、この巨大な東京という街で、迷える感情たちと向き合い、彼らをあるべき場所へ導いていくのだろう)
結城は、夕焼け空を見上げて目を細めた。
(だが、私の仕事はここまでだ。……あとは君たち若い世代に任せて、私は一足先に、重荷を下ろさせてもらうよ)
結城は、胸のポケットの上から、小百合の手紙にそっと触れた。温かい。彼女の愛の重さが、結城の歩幅を力強く押し出してくれる。
「さあ、小百合。……これからは、ずっと一緒に、手を繋いで歩こうか」
結城は、もらった花束を片手に抱え、もう片方の手をズボンのポケットに突っ込んで、歩き出した。どこへ向かうかは決めていない。アメ横で、妻が好きだったお茶菓子を買って帰るのもいい。不忍池の畔で、夕涼みをするのもいい。あるいは、かつて夢見たパリへ行くためのフランス語の辞書を、本屋で探してみるのも悪くない。
四十年の時を経て、結城は再び「自分自身の人生」という旅の切符を手にしたのだ。
***
上野駅。かつて北の玄関口と呼ばれ、多くの人々が重い荷物と情念を抱えて降り立った終着駅。その街の喧騒の中に、一人の老人の姿が静かに溶け込んでいく。無数の人々の人生の重さを背負い抜いたその背中は、誰よりも誇り高く、そして、涙が出るほど軽やかだった。
(『感情の忘れ物7 上野・結城編』―完― )
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
