連載小説『感情の忘れ物』 第1話 ~終電の安堵と不安~

JR中央線と京王井の頭線が交差する街、吉祥寺。

住みたい街ランキングの常連であり、若者の流行と昭和の風情が入り混じるこの街は、常に膨大な熱気を孕んでいる。

人が多ければ、当然、忘れ物も多い。

駅の北口、雑踏から一本外れた通路の奥に、ひっそりと佇む扉がある。

『吉祥寺駅 遺失物取扱センター』

磨りガラスの向こうには、外の喧騒が嘘のような静寂が広がっていた。

カウンターの中に座る男の名は、相沢という。

年齢は三十代半ば。整った顔立ちをしているが、その表情は能面のように動かない。

彼は季節を問わず、常に真っ白な布手袋を着用している。

カチ、コチ、カチ、コチ。

壁掛け時計の秒針が、無機質なリズムを刻む中、相沢は目の前の「それ」をじっと見つめていた。

昨夜、中央線下りの最終電車。その先頭車両で回収されたという落とし物だ。

透明なアクリルケースに入れられたそれは、一般人の目にはただの空気にしか見えないだろう。

だが、相沢の目には違って見えた。

暗い灰色の中に、砂金のような金色の光が混じり合い、不規則に脈打っている。

相沢は手袋越しに、ケースへ指を添えた。

瞬間、ビリリとした感覚が皮膚を刺す。

(……重いな)

それは質量としての重さではない。心臓が早鐘を打つような息苦しさと、足の力が抜けるような脱力感。

「生温かい鉛」のような感触が、手袋という絶縁体越しに伝わってくる。

相沢は表情を変えずに、業務日報へ万年筆を走らせた。

『拾得日時:〇月×日 深夜一時二分』
『拾得場所:中央線下り 最終電車 先頭車両座席』
『品名:感情(複合型)』
『成分:強烈な不安、および深い安堵』

彼はペンを置くと、小さく息を吐いた。

「……また、厄介な忘れ物だ」

***


翌日の午後二時。

自動ドアが開き、一人の男がセンターに入ってきた。

五十代半ばだろうか。くたびれたスーツを着たその男は、ひどく疲弊しているように見えた。目は充血し、ネクタイは緩んでいる。

だが、相沢が気になったのはその外見ではない。

男の胸のあたりに、ぽっかりと「穴」が開いているように見えたからだ。

「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか」

相沢が事務的な声をかけると、男は焦ったようにカウンターへ歩み寄った。

「あの、昨日……昨日の終電に、バッグを忘れてしまって。黒い、革の手提げなんですが」

「中身について、何か特徴はございますか?」

「仕事の……いや、大事な書類が入っているんです。茶色い封筒に入った」

相沢は端末を操作し、該当するデータを検索する。すぐにヒットした。

彼は奥の棚から、使い込まれた黒いビジネスバッグを取り出し、カウンターに置いた。

「こちらでお間違いないでしょうか」

男――佐々木という名のその客は、バッグを見るなり大きく息を吐いた。

「ああ、よかった……。これです、これに間違いありません」

佐々木はバッグを抱きしめた。

通常の客なら、ここで表情が緩み、笑顔のひとつも見せる場面だ。

しかし、佐々木の顔には生気が戻らない。

まるで、言葉の意味と心の動きが連動していないような、奇妙な空虚さが漂っている。

相沢は、確信した。

この男は、バッグと一緒に「心」を置いてきている。

それも、人間にとって極めて重要な部分を。

「中身の確認をお願いします」

相沢は淡々と促した。

佐々木は震える手でバッグを開け、中から茶色い封筒を取り出す。

中に入っていたのは、会社の機密書類ではない。

クリアファイルに挟まれた、『美術大学 入学志願票』だった。

保護者欄には、震える筆跡ながらも、力強く署名と捺印がされている。

「……これで、間違いありませんか?」

相沢があえて書面が見えるように尋ねると、佐々木は無感動に頷いた。

「ええ。これさえあれば、なんとかなりますから」

娘の進路に関わるであろう重要な書類。それが見つかったというのに、彼の声には喜びも、安心も滲んでいない。

ただ「事実」を確認しているだけのロボットのようだった。

相沢は、カウンターの下に用意していたアクリルケースを、静かに取り出した。

「お客様。もう一つ、お忘れではありませんか?」

佐々木は怪訝な顔をした。

「え? いえ、忘れたのはバッグだけですが……」

「いいえ。バッグのすぐ近くの座席に、これが落ちていました」

相沢は、脈打つ「鉛」の入ったケースを差し出した。

佐々木には、何も入っていないように見えているはずだ。だが、相沢の言葉に押されるように、彼はおずおずとそのケースの中へ手を伸ばした。

指先が、見えない塊に触れた、その瞬間。

ドクン。

センター内の空気が震えた。

佐々木の瞳孔が開く。

彼の中に、昨夜の記憶と感情が、濁流となって逆流した。

***


《 佐々木の回想 》

「ふざけるな! 美大なんて、食っていけるわけがないだろう!」

昨夜の怒号が頭に響く。娘は泣きながら家を飛び出した。

それきり、電話も繋がらない。

深夜になり、妻から「吉祥寺にいるらしい」という連絡を受けたとき、佐々木の頭の中は真っ白になった。

もし、事件に巻き込まれていたら?

もし、このまま二度と口を聞いてくれなくなったら?

もし、もう二度と会えなくなったら?

中央線の最終電車。窓の外を流れる暗闇が、得体の知れない怪物に見えた。

胃が雑巾のように絞られる感覚。

手にあるのは、娘がゴミ箱に捨てていった入学志願票。

佐々木は電車の中で、震える手でそれにハンコを押した。

反対してごめん。お前の好きなようにすればいい。だから、無事でいてくれ。頼むから。

張り裂けそうな**『不安』**。

吉祥寺駅のホームに、電車が滑り込む。

窓の外。

深夜の冷たい風を避けるように、ホームのベンチで膝を抱えている小さな背中が見えた。

「ああっ…!」

全身の血が崩れ落ちるような、『脱力』。

世界中の音が消えるほどの、『安堵』。

プシューッ。

ドアが開くと同時に、佐々木は弾かれたように飛び出した。

「○○!」

娘の名前を叫び、バッグを放り出し、我を忘れて駆け寄った。

その刹那、心の中に張り詰めていた巨大な感情の塊が、ゴロリと座席に転がり落ちた。

***


「……ああ、あっ……」

佐々木が、膝から崩れ落ちるようにカウンターに手をついた。

堰を切ったように、目から涙が溢れ出す。

呼吸が荒くなり、顔がくしゃくしゃに歪む。

先ほどまでの能面のような表情は消え失せ、そこには、娘を愛し、心配し、安堵する、ひとりの不器用な父親の姿があった。

「怖かった……。あの子がいなくなることが、こんなに怖いなんて……」

佐々木はバッグから志願票を取り出し、それを子供のように胸に抱いて泣いた。

「これを……これを渡しに行ったんだ。あの子に、好きにしていいって、伝えるために……」

相沢は、佐々木の背中が小刻みに震えるのを、静かに見守っていた。

手袋越しに感じていた「鉛のような重さ」は、いま、佐々木の体温と混ざり合い、温かな「愛」へと変わって吸収されていく。

しばらくして、佐々木は顔を上げた。

目は赤く腫れていたが、その瞳にはしっかりとした光が宿っていた。

「取り乱して、申し訳ありません」

「いいえ。全てのお忘れ物を、お返しできたようです」

相沢が淡く答えると、佐々木は深く頭を下げた。

「あの、駅員さん」

帰り際、自動ドアの前で佐々木が振り返った。

「ありがとう」

「……規定通りの業務ですので」

相沢のそっけない返事に、佐々木は少しだけ苦笑し、今度は軽やかな足取りで雑踏の中へと消えていった。

センターに、再び静寂が戻る。

相沢は椅子に座り直し、手元の万年筆を手に取った。

処理済みの欄にチェックを入れる。

ふと、彼は自分の胸に手を当てた。

ドクン、ドクンと心臓は動いている。

だが、先ほどの佐々木のような、熱い奔流はそこにはない。

あるのは、静まり返った湖のような、凪いだ心だけだ。

「……重いな」

相沢は独り言を呟き、自身の手袋を見つめた。

それは他人の感情の重さを知っているのに、自分の重さだけを知らない手だった。

棚の奥。

分類不能品」とラベルが貼られたコーナーに、いくつかのアクリルケースが並んでいる。

中には、透明なガラス細工のような欠片が、静かに眠っていた。

それらは時折、主のいない部屋で寂しそうに、カタリカタリと微かな音を立てるのだった。

(第2話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。