2027.01.03 品川 『Le Miroir』個室
「ん~っ! 何これ、とろける~っ!!」
理沙の歓喜の声が、防音の効いた個室に響いた。
彼女の目の前にあるのは、メインディッシュの「蝦夷鹿のロースト 赤ワインとカシスのソース」。
ナイフを入れただけで繊維がほどけるほど柔らかい肉と、濃厚で香り高いソースのマリアージュ。
理沙は一口食べるたびに、頬を紅潮させ、うっとりとした表情になる。
「幸せ……! こんな美味しいお肉、生まれて初めてかも……!」
一方、対面に座るリアムは、ナイフとフォークを動かしながらも、複雑な表情で皿を見つめていた。
確かに美味い。美味すぎる。
だが、それは自然な美味しさではない。食べた瞬間、脳内の快楽物質が強制的に分泌されるような、ドラッグじみた「作られた美味さ」だ。
Analyzing Food…
>Taste: Excellent
>Effect: Dopamine Surge (High Warning)
>Ingredient: Unknown Energy Detected
(……おかしい。ただの料理で、こんな異常な反応が出るか? まるで料理そのものが『感情』で味付けされているみたいな……)
「……ちょっとトイレ」
リアムは理沙に短く告げて席を立ち、重厚なドアを開けた。
そして、その一瞬の隙にメインダイニングの様子を素早くスキャンした。
Scanning Targets (Customers)…
>Target A (Man, 50s): Emotion = NULL (Void)
>Target B (Woman, 30s): Emotion = Very Low (Exhausted)
>Target C (Couple): Emotion = ERROR (Damaged / Fragmented)
(……やっぱりだ)
リアムの背筋が凍った。
この店の客たち。
みんな、笑顔で食事をしているように見えるが、その内面は『空っぽ』だ。
まるで、感情という生きるエネルギーを根こそぎ吸い取られた後の、抜け殻(NPC)のように。
***
「ねえ、リアムくん。さっきから難しい顔して。美味しくないの?」
理沙が心配そうに覗き込んでくる。
「……いや、美味しいよ。美味しすぎるくらいだ」
リアムは声を潜めた。
「ねえ理沙姉。……この店、なんか変じゃない?」
「え? そう? ちょっとシェフがイケメンすぎて緊張するくらいで、普通の素敵な良いお店じゃない?」
理沙は能天気にローストを頬張るが、ふと動きを止めた。
「……言われてみれば、さっきから、なんか胸がザワザワするかも。巣鴨で、悪いツボを売りつけられそうになった時みたいな……嫌な予感がする」
防音の効いた個室で冷静さを取り戻すにつれ、理沙の特異な嗅覚と、巣鴨で揉まれた経験則が、微かな警鐘を鳴らし始めていたのだ。
目の前の美味しすぎる料理から漂う、不自然な「作られた幸福の匂い」に対して。
「帰ろう。デザートはいい」
リアムがナプキンを置き、立ち上がろうとした、その時。
コンコン。
静かな、しかし拒絶を許さない鋭利なノック音と共に、個室のドアが開いた。
「失礼いたします。……お食事は、お楽しみいただけていますでしょうか?」
現れたのは、総料理長の三浦省吾だった。
彼は、給仕のワゴンを押しているわけでも、伝票を持っているわけでもない。
ただ、手ぶらで、ゆっくりと入ってきた。
「え、ええ! すっごく美味しいですシェフ! もう最高です!」
理沙が慌てて笑顔を作り、少し緊張した様子を見せる。
三浦は、ゆっくりと理沙の席の横に歩み寄った。
その瞳は、もはや銀縁眼鏡の奥で隠しきれないほど、ギラギラと赤く発光していた。
「それは良かった。……ところで峰岸様。先ほどから気になっていたのですが」
三浦の視線が、理沙が椅子の背もたれに置いているバッグに釘付けになる。
そこから立ち上る、巣鴨の老人たちの「感謝の芳香(ヴィンテージ・アロマ)」が、個室内に充満し、三浦の理性をとっくに焼き切っていたのだ。
「そのバッグに付いている『香り』……。あまりにも素晴らしくて、厨房にいても気が気じゃなかったんですよ。仕事が手につかないほどにね」
「へ? 香り? 香水なんてつけてませんけど……。あ、もしかして、お線香の匂いとか移っちゃいました?」
理沙が自分の袖口をくんくんと嗅ぐ。
「いえ、貴女には分からないでしょう。これは、私のような『美食家』にしか分からない、極上の熟成香です」
三浦が一歩、距離を詰めた。
その瞬間、リアムの脳内で警報(アラート)が最大音量で鳴り響いた。
Warning! Hostile Intent Detected!
Target: MIURA -> RISA
Action: PREDATION (捕食)
「理沙姉! 逃げてッ! そいつ、ヤバイ!!」
リアムが叫び、テーブルを蹴って理沙を庇おうとした。
だが、遅かった。
「――少しだけ、『味見』させていただけますか?」
三浦の動きは、人間離れしていた。
これまでの「忘れ物をネコババする」ような姑息な手段ではない。
真正面から、流れるような動作で、理沙のバッグに手を伸ばした。
「きゃっ!?」
理沙が反射的にバッグを抱え込もうとするが、三浦の指がバッグの表面に触れた瞬間。
ジュワァァァ……ッ!
バッグの表面から、金色の光の粒が、湯気のようにフワァッと舞い上がった。
「あぁ……。素晴らしい……!」
三浦は恍惚とした表情で、その光の粒を鼻から深く吸い込んだ。
ほんの一呼吸分。それだけで、彼の全身の筋肉がビクンと膨張し、上質なコックコートが悲鳴を上げて張り詰めた。
「うっとりするような『善意』の味だ。……これは、コース料理のメインに相応しい」
三浦がゆっくりと顔を上げ、理沙とリアムを見下ろした。
その顔には、もはや知性的なシェフの面影はなかった。
そこにいたのは、食欲という本能のみで動く、飢えた獣そのものだった。
「さあ、フルコースの始まりだ。……残さず、いただくとしよう」
個室の重厚なドアが、ドスンと閉まった。
逃げ場のない密室で、捕食者と獲物が対峙する。
(第5話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
