2027.03.16 東京・吉祥寺 『吉祥寺駅 遺失物取扱センター』
ズバァァァンッ!!
凄まじい破砕音と共に、センターの分厚い木製カウンターが、まるで豆腐のように真っ二つに両断された。
切断面は異常なほど滑らかだ。
それを成し遂げたのは、日本刀でもチェーンソーでもない。如月(α)がその辺から拾い上げた、たった一本の『プラスチック定規』だった。
「ひゃははははッ!! すげえな、このガキの能力! ただのゴミが名刀に早変わりだぜ!」
如月(α)は、ドス黒いオーラを纏った定規をヒュンヒュンと振り回し、歓喜の声を上げた。
「……冗談キツいぜ。あんなモンまともに食らったら、骨ごとイカれるぞ」
カウンターの陰に飛び退いた須藤が、冷や汗を拭いながら悪態をつく。
その横で、理沙も恐怖に震えながら身を屈めていた。
「俺の『感情転移』だけじゃねえ。このガキの肉体(ハード)を乗っ取ったことで、このガキの『物質強化』の能力まで俺のモンになったってわけだ! 前はこのガキの身体に馴染むだけで精一杯だったが……今は違う!まさに無敵のハイブリッドじゃねえか!」
如月(α)は舌なめずりをし、次の標的を相沢に定めた。
「さあて、まずは一番偉そうな白手袋から血祭りにあげてやる!」
如月(α)が、爆発的な脚力で床を蹴った。
真っ直ぐに相沢の首を狙い、定規の刃が振り下ろされる。
相沢は動かず、ギリギリでその太刀筋を見切り、回避しようとした。
だが――。
「死ねェッ!」
如月(α)がさらに加速しようと踏み込んだ、その瞬間。
ガクッ。
如月(α)の足が、不自然にもつれた。
バランスを崩し、定規の刃は相沢の肩を掠め、背後のロッカーを深くえぐり取るにとどまった。
「……あァ!?」
如月(α)は苛立たしげに舌打ちをし、自分の足――如月淳の脚をバンッと殴りつけた。
「チッ! なんだこの貧弱な肉体(スペック)は! 俺の思考スピードに筋肉が全然追いついてこねえ! もっと速く動け、この『のろま』がッ!!」
如月(α)は、まるで『自分の思い通りに動かない乗り物』に腹を立てるように、自分自身の体を罵倒したのだ。
その異様な光景と台詞を見た瞬間。
相沢の脳内で、バラバラだったピースが一瞬にして繋がり、一つの恐るべき結論を導き出した。
「……そういうことですか」
相沢の瞳が、驚愕から、冷徹な分析の色へと変わる。
「あなたは……如月淳君ではないですね」
「……あ?」
如月(α)が動きを止め、相沢を睨みつけた。
「どんなに深い闇を抱えていようと、人間は自分自身の肉体を『のろま』などと、まるで他人の所有物のように罵倒したりはしない。……あなたのその口調は、まるで他人の車を運転しているハイジャック犯のようだ」
相沢は、一歩前に出た。
「あなたは如月淳の隠された本性などではない。あの『愉悦と無差別の殺意』という感情そのものに宿った、独立した別の人格……彼に寄生している『怪物』だ!」
その言葉に、須藤と理沙が息を呑んだ。
感情に人格が宿る。そんなことは、これまでの彼らの常識ではあり得ないことだった。
「……ククッ。ハハハハハッ!!」
如月(α)は、隠す素振りも見せずに大笑いした。
「ご名答だ、白手袋。俺は『α(アルファ)』。この身体は、元の持ち主の坊主と契約して譲り受けた、俺の新しい器だ。……まあ、元の持ち主の魂は、新宿のゴミ箱にでも転がってるだろうがな!」
「新宿の、ゴミ箱……?」
須藤がその単語に反応したが、今はそれどころではない。
「……最悪の事態です」
相沢は、須藤と理沙に向けて、切迫した声で告げた。
「敵は如月君の身体を完全に奪い、本人の魂をどこかへ排斥している。もしここで力ずくで倒し、この肉体に致命傷を与えてしまえば……いつか如月君の本当の魂を見つけ出しても、彼が帰るべき『器』が永遠に失われてしまう。……私たちは、この少年に『攻撃』を加えることができない!」
「はぁ!? ふざけんな、じゃあ一方的にサンドバッグになれってのかよ!」
須藤が怒鳴る。
相手は殺す気満々で凶器を振り回してくるのに、こちらは反撃ができない。あまりにも理不尽な総力戦だ。
「私が……私がやります!」
その絶望的な状況下で、理沙が立ち上がった。
彼女は両手を前に突き出し、如月(α)に向かって集中する。
「巣鴨で暴走した時の力……今なら、コントロールできる。あの黒いヘドロだけを、私の『白い蔦(つた)』で引きずり出してみせる!」
理沙の背中から、純白に輝くオーラの蔦が数本、鞭のように飛び出した。
巣鴨の街を恐怖に陥れたあの《黒い蔦》を、相沢と須藤の助けで浄化し、彼女自身の新たな能力へと昇華させた技だ。
「いっけえぇぇっ!」
白い蔦が如月(α)の胸元に吸い付き、内側にあるドス黒いαの人格(感情)だけを絡め取ろうとする。
ズズズズズ……ッ!
「……あん? なんだこの細っこい紐は」
如月(α)は、自分の胸にへばりついた白いオーラを見て、鼻で笑った。
「そんなモンで、俺を引き剥がせると思ってんのか?」
如月(α)が、軽く胸を張っただけで――。
バチンッ!!
理沙の放った白い蔦が、無惨にも弾け飛んだ。
「きゃあっ!?」
理沙が反動で吹き飛ばされ、床を転がる。
「馬鹿野郎!! 誰がそんな危ねえ力使っていいっつった!!」
須藤が理沙に駆け寄り、怒鳴りつけた。
「てめえの許容量(キャパ)を超えたら、またバケモノに逆戻りすんだろうが! 下がってろ!」
須藤は理沙を庇うように前に出ると、首からヘッドフォンを外し、如月(α)に向かって突進した。
「なら、俺が直接引っぺがしてやるよ! 俺の『共有(シンクロ)』なら、どんなにこびりついた汚れだろうが、丸ごと俺の体(パイプ)を通して下水に流してやる!!」
須藤が、如月(α)の腕をガシッと掴んだ。
バチィッ!!
神経回路が強制接続される。
「オラァァァッ! 出てきやがれ、クソ悪魔ァァッ!!」
須藤は全身の血管を浮き上がらせ、αの人格と感情を、自分の体内へと強引に引き摺り込もうとした。
「……ッ、が……!?」
だが、次の瞬間、須藤の口から苦悶の血が噴き出した。
(な、なんだこれ……!? 引き剥がせねえ……!)
須藤は戦慄した。
かつて巣鴨で、理沙が他人の感情を取り込みすぎて暴走した時も、そのヘドロは彼女の身体組織に強固に『癒着』していた。
だが、あの時は俺が力ずくで引き剥がし、相沢の力で浄化することができた。
しかし、今回は根本的に次元が違う。
αの人格は、ただ如月淳の肉体にこびりついた「ノイズ(汚れ)」ではない。
脳のシナプス、血管、細胞の隅々に至るまで、もはや『肉体そのもの』として完全に同化(融合)してしまっているのだ。
これを無理やり引き剥がすことは、如月淳の肉体から骨と臓器を素手で引き抜くのと同じことだ。
「無駄だぜ、チンピラ。俺とこの身体は、もう一心同体なんだよ」
如月(α)が、嘲笑うように須藤の手を握り返した。
「ぐ、あああああッ!?」
逆に、αの凄まじい悪意の奔流が須藤の体へと逆流してくる。
須藤は耐えきれず、自ら手を離して後方へ大きく吹き飛ばされた。
「須藤さん!」
相沢が間一髪で須藤の体を受け止めるが、その衝撃で二人もろとも壁に激突した。
「はぁ……はぁ……、クソが……。打つ手なしかよ……」
須藤が鼻血を拭いながら呻く。
「……ええ。私の『浄化の光』も、対象を分離できなければ使えません。無理に撃てば、如月君の肉体ごと消滅させてしまう……」
相沢の顔にも、深い焦りの色が浮かんでいた。
物理攻撃はできない。
理沙の吸収も弾かれる。
須藤の強制引き剥がしも通用しない。
相沢の浄化も撃てない。
完全なる手詰まり。
防戦一方の彼らの前で、如月(α)は悠然と定規(凶刃)を構え直した。
「ハハハハハッ! 傑作だな! お前ら、このガキを傷つけられないから本気が出せねえのか! 偽善者どもめ、そのまま嬲(なぶ)り殺しにしてやるよ!」
如月(α)が、止めを刺そうと大きく刃を振りかぶった。
三人の能力者が、死を覚悟したその時。
「ひぃぃぃぃぃぃっ! ご、ごめんなさァァァァァァいっ!!」
センターの外から、情けない大絶叫と共に、一人の大男が転がり込んできた。
自動ドアに顔面から突っ込み、床に派手にスライディングしてきたのは――。
完璧なスーツを土埃で汚し、顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした品川のシェフ、三浦省吾だった。
「な、なんですかァ!? この大惨事はァ!?」
三浦は、半壊したセンターと、刃物を振りかぶる少年、そして壁際で血を流す相沢たちを見て、完全にパニックに陥った。
この、おっちょこちょいで情けない料理人の乱入が、絶望的な戦況を大きく覆す「起死回生の一手」になるとは、この時のαには知る由もなかった。
連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
(第8話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
