連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第2話 ~野良猫のネオン毒~

新宿の地下は、地上よりも空気が重い。

換気扇が唸りを上げて回っているが、染み付いた埃(ほこり)と、何百万人もの人間が落としていった欲望の残り香は、そう簡単には消えないらしい。

俺は眉間に皺(しわ)を寄せて、デスクの上にある「それ」を睨みつけていた。

物理的な物体は、鋭い鋲(びょう)が打ち込まれた黒い革のチョーカー。

ドン・キホーテあたりで売っていそうな、安っぽいパンクファッションのアイテムだ。

だが、俺を不快にさせているのは、それにへばりついている粘着質の感情の方だった。

蛍光ピンクと蛍光グリーンがマーブル状に混ざり合った、ドロドロのスライム。

そいつはチョーカーに絡みつきながら、甘ったるいエナジードリンクと腐った果実を煮詰めたような悪臭を放っている。

そして何より、音がひどい。

テテテテ、テテテテ

安っぽい電子音が高速でループする、破滅的なリズム。

聞いているだけで脳みそが溶け出しそうな、不快なハイテンションだ。

「……チッ。目がチカチカするんだよ」

俺は慣れた手つきでトングを使い、スライムごとチョーカーを持ち上げた。

スライムがネバネバと糸を引き、デスクにポタリと落ちて『ジュッ』と音を立てる。

もちろん、俺にしか聞こえない幻聴だ。

『品名:感情(中毒型)』
『成分:万能感、刹那的な快楽、および緩慢な自殺』

こんなもの、分析するまでもない。俺はいつもの定型文を端末に打ち込んだ。

この街の「広場」に溜まっている連中が、よく落としていくヤツだ。

***


深夜二時。

深夜帯の窓口対応が始まった頃、自動ドアが開いた。

「……あの」

入ってきたのは、派手な地雷系メイクをした少女だった。

年齢は十五、六といったところか。

黒いマスクに、オーバーサイズのパーカー。足元は厚底のブーツ。

いわゆる「トー横」界隈のキッズだ。

だが、その表情に覇気はない。メイクは涙で崩れ、パンダのようになっている。

彼女は寒さに震える野良猫のように、おずおずとカウンターに近づいてきた。

「チョーカー、届いてませんか。鋲がついた、黒いやつ……」

「名前は?」

「……エリ」

エリは、視線を合わせようとしない。

「あれがないと、私……無理なんです」

昨夜までは、あのチョーカー(=万能感)をつけて、広場の姫として君臨していたのだろう。

だが、魔法のアイテムを落とした今、彼女はただの「家に帰れない子供」に戻ってしまっている。

金がない。行く当てがない。大人が怖い。

そんな現実の恐怖が、彼女を震え上がらせていた。

俺にとっては、今のエリから発せられる「メソメソした泣き声のノイズ(恐怖)」も鬱陶しいが、チョーカーの「電子音ノイズ(快楽)」も同じくらい不快だ。

どっちもさっさと追い払いたい。

「あるぞ。さっさと持ってけ。ここにサイン」

俺は事務的に、例のチョーカーをカウンターに出した。

その瞬間、エリがビクリと肩を震わせ、後ずさった。

「あ……」

彼女は手を伸ばしかけて、引っ込める。

本能が察知したのだろう。

その黒い革の上に、毒々しいスライムが乗っかっていることを。

「……怖い」

エリが搾り出すように言った。

「それつけると、楽しいけど……自分が自分でなくなっちゃう気がして」

彼女の瞳が揺れている。

このまま毒を喰らってハイになるか、それとも素面のまま絶望的な夜を過ごすか。

「帰りたくない……でも、これ以上壊れるのも怖い……」

エリが泣き出しそうになる。

その葛藤のノイズが、俺のヘッドホンを突き抜けて突き刺さる。

「……グダグダ言ってんじゃねえ」

俺は面倒くさそうに溜息をつき、椅子から身を乗り出した。

子供の人生相談に乗る趣味はない。

俺はカウンター越しに、エリの手首を強引に掴んだ。

「ひっ!」

「いいから見ろ」

バチッ。

一瞬の感覚共有(シンクロ)。

俺の視覚野を、エリの網膜に強制接続する。

「な、に……これ……」

エリの目が大きく見開かれる。

彼女の視界の中で、チョーカーに絡みつくネオン色のスライムが、ボワリと発光した。

「見えたろ? それがあんたの『燃料』だ。それがないと、この街じゃ息ができねえんだろ」

俺はすぐに手を離した。

長く繋がっていると、こっちまで頭がおかしくなりそうだ。

エリは自分の手首をさすりながら、まじまじとチョーカーを見つめた。

吐き気を催すような悪臭。

けれど、それ以上に脳髄が痺れるような、強烈な「渇望」が彼女を襲う。

毒でもいい。偽物の万能感でもいい。

この寒くて、惨めで、誰にも必要とされない現実よりは、何倍もマシだ。

「……うん」

エリの瞳から、迷いが消えた。

「私、まだ帰りたくない」

彼女はチョーカーをひったくるように掴み、震える手で首に巻いた。

カチッ。

留め具がはまる音と共に、ヌルリとスライムが彼女の首筋へ浸透していく。

瞬間。

エリの瞳孔が開き、震えがピタリと止まる。

彼女は口角を吊り上げ、楽しげな笑顔を浮かべて、俺に向かってピースサインをした。

「あー、スッキリした! ありがとね、おっさん!」

声のトーンが跳ね上がっている。

彼女はもう、怯える子供ではない。

夜の街を徘徊する、無敵の妖精だ。

「じゃーねー!」

エリはスキップをするように軽い足取りで出口へ向かう。

だが、自動ドアが開く直前。

ふと、彼女が足を止めた。

背中を向けたまま、ボソリと呟く。

「……説教しない大人って、初めてだよ」

その声は、偽物の万能感に酔った「広場の姫」の声ではなく、一瞬だけ戻ってきた「エリ」本人の、静かで感謝のこもった声だった。

「じゃあね」

彼女は再びリズムを取りながら、ネオンが瞬く雑踏の中へ消えていった。

俺はトングを放り出し、冷めきった泥水のようなコーヒーを喉に流し込んだ。

「……説教するほど、他人に興味ねえよ」

口の中に広がるのは、いつも通りの不味い苦味だけだ。

 だが、あの湿っぽい泣き声(ノイズ)が遠ざかったことだけは評価してやる。

 破滅に向かうリズムだろうが何だろうが、俺の耳元で鳴らなきゃそれでいい。

***


さて、仕事に戻るか。

俺は次の伝票を手に取った。

これは返却ではなく「移送」の案件だ。

『吉祥寺駅 遺失物取扱センター 相沢殿』

宛先を見て、俺はまた舌打ちをする。

「……うわ、気持ち悪ッ。なんだこの音」

移送予定の段ボール箱の中には、薄汚れたウサギのぬいぐるみが一匹入っていた。

だが、問題なのはその中身だ。

真っ黒なタールのような「怨念」が染み付いており、俺の耳には『ウウウゥゥ……』という低い唸り声が、地底からの響きのように聞こえていた。

「勘弁しろよ……」

俺は不快感に顔を歪めながら、梱包材(プチプチ)のロールを引き出した。

こんな音を撒き散らされたら、運送屋が発狂する。普通の人間であってもだ。

俺はぬいぐるみをプチプチで二重、三重、いや十重巻きにした。

さらにガムテープでぐるぐる巻きにし、「取扱注意」「水濡れ厳禁」「天地無用」のシールを、隙間がないほどベタベタと貼る。

やがて、ぬいぐるみは元の形がわからないほどの「厳重なミイラ」になった。

「これなら音も漏れねえだろ。……よし、吉祥寺送りだ」

俺は厳重に封印された箱に伝票を貼り付けると、集荷コーナーのカゴへ放り投げた。

吉祥寺の相沢とかいう奴がこれを見てどう思うかなど、知ったことではない。

俺の仕事は、この場所からノイズを排除すること。

ただ、それだけだ。

(第3話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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