2026.12.05 品川
「ウィ、シェフ! ただちに!」
怒号にも似たオーダーが飛び交う『Le Miroir』の厨房。
だが、その中心に立つ三浦省吾だけは、無音の空間にいるかのように静謐だった。
彼の動きは、人間のそれを超えていた。
左手でフライパンを煽りながら、右手でソースの味を調整し、同時に部下たちの盛り付けを目視でチェックする。
並列処理(マルチタスク)。
そして、恐ろしいほどの持久力。
(……ふっ。体が軽い)
三浦は内心で笑みを浮かべた。
今の彼は、昨日摂取した**「成約の喜び(万年筆に付着した達成感)」**のエネルギーで満ちている。
その味は、極上のヴィンテージ・ポートワインのように芳醇で、脳の疲労物質を全て焼き尽くしてくれた。
「素晴らしい……! 今日のシェフは神がかっているぞ!」
「あのお客様、一口食べただけで涙を流していたぞ」
スタッフたちの畏敬の念。
店は連日満席。予約は半年先まで埋まった。
三浦の料理は、単なる技術(テクニック)を超え、食べた者の魂を揺さぶる「魔術」の域に達していたのだ。
もちろん、そのエネルギー源が「他人の感情」であるとは、誰も知る由もない。
***
ディナー営業終了後。オーナーシェフ室。
三浦は、本日の「収穫物」をデスクの上に並べていた。
忘れ物保管箱(ロスト・アンド・ファウンド)は、彼にとっての宝石箱であり、極上のヴィンテージを眠らせる貯蔵庫(カーヴ)だ。
「さて……今夜のコース(献立)はどうするか」
三浦はワイングラスを片手に、素手で一つ一つのアイテムを鑑定していく。
まず、少し擦り切れた革の定期入れ。
そこから漂うのは、湿った土のような匂い。
(……残業続きの疲労と、家族への申し訳なさか。少し泥臭いが、滋味深い煮込み料理(ラグー)のような味わいだ)
次に、派手なラメ入りの化粧ポーチ。
ツンとする香水の匂いと、焦げ付いたような砂糖の香り。
(……合コンでの必死さと、選ばれなかった焦燥感。安っぽい甘味だが、デザート代わりにはなる)
そして、今夜のメインディッシュ。
品川の再開発を取り仕切る大物議員が、個室に忘れていった**「高級葉巻のケース」**だ。
そこには、ドロドロとした**「漆黒の液体(ポタージュ)」**が、タールのように纏わりついている。
「……素晴らしい」
三浦の眼鏡が怪しく光る。
その液体からは、鉄錆のような血の匂いと、ブランデーのような熟成されたアルコール臭が立ち上っている。
『野心』。
それも、他者を蹴落とし、支配し、頂点に立とうとする、強烈な渇望だ。
三浦は、まるで聖体を拝領するかのように、そのケースを両手で持ち上げた。
そして、纏わりつく漆黒の液体を、恭しく舐め取った。
「――んっ……!」
三浦の背筋が反り返る。
濃 厚 だ。
これまでのどんな感情よりも重く、複雑な味わい。
口の中に広がるのは、煮詰めたデミグラスソースのようなコクと、舌を刺すような黒胡椒の刺激。
喉を通る瞬間、カッと熱くなり、胃の中で爆発的なエネルギーへと変換される。
「……ハハッ! ……ハハハハハッ!」
三浦は高笑いを上げた。
『力』が溢れてくる。全能感が指先まで行き渡る。
視界が一段とクリアになり、世界がスローモーションに見える。
今の自分なら、どんな難解なルセット(調理法)も即座に構築できるし、何時間でも働き続けられる。
「私は……選ばれた人間だ」
三浦は確信した。
自分はこの食物連鎖の頂点に立ったのだ。
客たちは、金を払って食事をしに来ているのではない。
彼らは、三浦という捕食者に、自らの「感情」という最上の栄養分を献上しに来ている「家畜」なのだ。
「だが……もっとだ。もっと質の良い食材(エモーション)が必要だ」
天然の忘れ物を待っているだけでは効率が悪い。
もっと積極的に、感情を「熟成」させ、「収穫」する必要がある。
三浦はデスクのカレンダーを見た。
来月はお正月。一年で最も人々が浮かれ、財布の紐が緩み、感情が豊かになる時期だ。
彼は予約リストのタブレットを指先で弾いた。
1月3日のディナータイム。
そこに、ある一組の予約が入っているのが目に止まった。
『予約名:峰岸 理沙 様(2名)』
「……ほう」
三浦の『視覚』が、その名前に微かな反応を示した。
文字面から漂う、とてつもなく純粋で、無防備な「光」の予感。
これまでの薄汚れた欲望とは違う、特級品の香り。
「峰岸……か。どんな食材(かた)なのか、楽しみですね」
三浦は残りのワインを飲み干し、不敵な笑みを浮かべた。
彼の瞳の奥では、飽くなき食欲という名の悪魔が、ナイフとフォークを構えて待ち構えていた。
(第3話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
