連載小説『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』第5話 ~腐ったミカンと偽善の香り~

朝。

巣鴨のセンターに差し込む蛍光灯の光が、理沙の目には針のように痛かった。

「……くさい」

理沙はマスクの上から鼻を押さえ、呻くように呟いた。

彼女の首には、季節外れの厚手のスカーフが巻かれている。それは、襟元から首筋へと這い上がってきた「黒い蔦(つた)」を隠すためのものだった。

カウンターの隅に、常連のお年寄りが置いていった「みかんのカゴ」がある。

昨日までは、瑞々しいオレンジ色に見えていた。

だが今、理沙の目に映っているのは、ドロドロに腐敗し、青カビが生え、小さな羽虫がたかっているグロテスクな果実の山だった。

(捨てなきゃ……いや、触りたくない)

強烈な腐敗臭が鼻を突く。

理沙の五感は、完全に狂い始めていた。

体内に蓄積された膨大な「ネガティブな感情」が、フィルターのように彼女の感覚を覆い、世界を醜悪な姿へと書き換えているのだ。

ガラガラッ。

扉が開く音が、耳障りなノイズとして響く。

「あら、峰岸さん。おはよう」

入ってきたのは、先日、孫へのハンカチを探しに来た梅さんだった。

「昨日、顔色が悪かったから気になってね。栄養ドリンク持ってきたのよ。無理しちゃだめよ」

梅さんは慈愛に満ちた笑顔で近づいてくる。

本来なら、それは「陽だまりの匂い」がするはずだった。

だが今の理沙には、梅さんの笑顔が不気味に歪んで見えた。

そこから漂うのは、まとわりつくような**「生温かい湿気」と、鼻につく「安っぽい香水」**のような匂い。

(……うっとうしい)

理沙の脳裏に、どす黒い感情が湧き上がる。

心配? 親切?

違う。これは「私は若者を気遣う良い年寄りだ」という自己満足だ。

押し付けがましい。重い。気持ち悪い。

「ほら、これ飲んで……」

梅さんが理沙の手を握ろうとした瞬間。

「触らないで!!」

理沙は叫び、反射的にその手を振り払った。

バシッ!

乾いた音が響く。梅さんが驚いて目を見開く。

「え……峰岸さん?」

「あ……」

理沙は自分の手に残る感触に震えた。

違う、そんなつもりじゃ。謝らなきゃ。

でも、口から出たのは、冷たい拒絶の言葉だった。

「……放っておいてください。今は、誰とも話したくないんです」

梅さんは悲しげに眉を下げ、「ごめんなさいね……」と小さく呟いて、栄養ドリンクを置いて出て行った。

理沙はカウンターに突っ伏した。

自己嫌悪で胸が潰れそうだったが、それ以上に、梅さんが去ったことで「あの不快な匂い」が消えたことに、安堵している自分がいた。

***


午後。

一人の男性が、足音荒く入ってきた。

「すみません! 腕章! 腕章届いてませんか!」

五十代くらいの、恰幅の良い男性――金子(かねこ)。

彼は地域の防犯パトロール隊のボランティアリーダーだ。

「いやぁ、駅前の放置自転車をね、整理していたんですよ。点字ブロックの上にはみ出して停めるなんて、けしからんでしょう?」 

金子は額の汗を拭いながら、まくし立てた。

 「夢中で動かしていたら、いつの間にか外れてしまったようで……。これがないと示しがつかない! 街の安全を守るのが、私の使命ですから!」

金子はハキハキと大きな声で喋る。

普段の理沙なら、「正義感の強い、頼れるおじさん」に見えていただろう。

だが、今の理沙には、彼が吐き出す息が**「ヘドロ」**のように見えた。

(うるさい。臭い。使命? 笑わせないで)

理沙の目には、金子の全身から**「承認欲求」と「支配欲」**の黒いオーラが立ち上っているのが見えた。

『俺は偉い』『俺に感謝しろ』『俺に従え』。

正義の皮を被った、醜いエゴの塊。

その悪臭に、理沙は吐き気を催した。

「……これですか」

理沙は、トングを使って緑色の腕章を摘み上げた。

そこには、金子の「焦り」が少し付着していた。

いつもなら、それを吸い取って浄化して返していただろう。

だが、理沙の中で何かが切れた。

(あんたなんかに、綺麗な心なんて似合わない)

(私の体の中にある、このドロドロした気持ち悪いもの……あんたにも分けてあげる)

理沙は無意識のうちに、指先に力を込めた。

いつもとは逆。

吸い込むのではなく、**「注ぎ込む」**イメージ。

ドクン。

理沙の背中の痣が脈打った。

体内に溜まっていた膨大な「悪意のヘドロ」の一部が、指先を通って逆流し、腕章へと染み込んでいく。

緑色の腕章が、理沙の目にはどす黒く変色したように見えた。

「はい、どうぞ」

理沙は、呪いのアイテムと化した腕章を渡した。

「おお、ありがとう! これでまた街を守れる!」

金子は何の疑いもなく腕章を受け取り、腕に巻いた。

その瞬間。

金子の表情が、ピクリと止まった。

爽やかだった笑顔が消え、口元がだらしなく歪む。

目つきが濁り、陰湿な光が宿る。

「……チッ」

金子は舌打ちをした。

「なんで俺が、こんなタダ働きしなきゃなんねえんだよ」

「え?」

「クソ暑い中、徘徊老人どもの世話なんか知るかよ。……おい、邪魔だぞ」

金子は理沙を睨みつけると、肩を怒らせて出て行った。

「誰か文句言ってきたら、怒鳴りつけてやるか……」

その背中からは、隠していた本音が溢れ出し、周囲に悪意を撒き散らしていた。

それを見送った理沙は、ゾッとするどころか、口角を吊り上げていた。

「……あはっ」

乾いた笑い声が漏れる。

「そっちの方が、お似合いだよ」

スッキリした。

自分の中に溜まっていたゴミを、他人に押し付けた快感。

理沙の中で、倫理の堤防が決壊した。

***


同時刻。吉祥寺駅、遺失物取扱センター。

静寂に包まれた部屋で、相沢がふと顔を上げ、万年筆を置いた。

彼は窓のない壁の方――北の方角を、じっと見つめた。

「……風の匂いが、変わりましたね」

相沢は鼻をかすかに動かした。

微かに漂ってくるのは、腐った果実と、焦げたゴム、そして下水のような臭気。

物理的な風ではない。感情の気流が運んでくる、不吉な予兆。

新宿の時とは違う、もっと陰湿で、根深い何かが腐敗している気配。

相沢は端末を取り出し、短いメッセージを打ち込んだ。

『宛先:新宿センター 須藤殿』
『本文:新宿の方、異常はありませんか? なければ、近々、**管轄外への『出張』**になるかもしれません。耳栓の準備を』

***


夜。

閉館した巣鴨のセンターで、理沙は一人、洗面所の鏡の前に立っていた。

彼女はゆっくりと、首のスカーフを解いた。

「…………」

鏡に映った自分の姿を見ても、もう悲鳴は出なかった。

背中から伸びた黒い蔦は、首を完全に覆い尽くし、左の頬にまで達していた。

白い肌に刻まれた、刺青のような黒い紋様。

それは不気味に脈打ち、理沙の脳髄へと根を伸ばしている。

理沙は、鏡の中の自分に向かってニヤリと笑った。

かつての朗らかな笑顔ではない。

光の消えた瞳に、暗い炎が揺らめく、魔女のような微笑み。

「私だけが苦しむなんて、不公平だよね」

理沙は黒く染まった指先で、頬の蔦を愛おしそうになぞった。

「みんな、私と同じになればいい。……この街ごと、全部」

巣鴨の地下で、一人の「人助けが好きだった少女」が死んだ。

そして代わりに、悪意を増幅させてばら撒く、悲しき「女王」が誕生した。

(第6話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

【このサイトについて】
このサイトでは、オリジナルの短編小説を公開しています。
SF、ヒューマンドラマ、少し不思議な物語など、
1話3~5分程度で読める作品を中心に掲載しています。
忙しい日常の隙間時間に気軽に楽しめる読み物をお届けします。
ヒューマンドラマ
この物語を共有する