2027.03.16 品川 『Le Miroir』
「完璧だ。今日のソースは一段と輝いている」
ランチタイムの営業を終えた厨房で、総料理長の三浦省吾はご機嫌だった。
数日前にあの「黒いスマートフォン」を吉祥寺のセンターに預けて以来、三浦の体調はすこぶる良かった。
本来なら、あんな恐ろしい悪意を「味見」してしまったのだ。腹を下すか、最悪の場合は精神に異常をきたしてもおかしくはなかった。
しかし、三浦の特異体質『感情の美食家(感情を食して能力を向上させる)』は、あの悪意の表面にこびりついていた「飛沫」を、見事にスパイスとして消化してしまっていた。
(相沢さんには『何もしていない』と嘘をついてしまったが……まあ、結果オーライというやつだろう。私の料理の腕も上がったことだし)
三浦は少しだけ罪悪感を覚えつつも、漲(みなぎ)る力に酔いしれていた。
「シェフ、入り口にお客様が……。営業時間外だとお伝えしたのですが、どうしてもお尋ねしたいことがあると」
ギャルソンの言葉に、三浦はエプロンを外しながらエントランスへと向かった。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
仕立ての良い私服を着た、十五歳くらいの少年。
整った顔立ちと、澄み切った瞳。どこぞの良家の子息といった佇まいだが、三浦の『視覚』は、彼から一切の感情(オーラ)を感じ取れなかった。
(……なんだ、この少年は? まるで、精巧に作られたガラス細工のように『空っぽ』じゃないか)
「あの、突然申し訳ありません。僕、如月淳と言います」
少年が深く、綺麗な角度で一礼した。
「実は先日、僕の両親がこちらでお食事をさせていただいたのですが……その際、黒い古いスマートフォンを置き忘れていなかったでしょうか」
三浦の背筋が、ピクッと反応した。
(如月……あの時のご夫婦の、少年院に入っていたという息子か!)
三浦は思わず身構えた。
あの、純度100%の殺意と愉悦を詰め込んだ恐ろしいスマートフォンの持ち主。
だが、目の前にいる少年からは、そんな悍(おぞ)ましい気配は微塵も感じられない。
悪意を隠しているというレベルではない。本当に「何もない」、ただの純粋な器なのだ。
(……なるほど。あのスマホに自分の『悪意』がこぼれ落ちたから、今のこいつはこんなに空っぽで無害なのか)
三浦は合点がいった。
そして、目の前の少年が「ただ自分の大切なお守りを探しに来ただけの、気の毒な子供」にしか見えなくなってしまった。
「……ええ、お預かりしていましたよ、如月君」
三浦は、努めて優しい声を作った。
「ご両親が慌てて帰られたので、私が大切に保管しておきました」
淳の顔に、パァッと花が咲くような、しかしどこか機械的な明るい色が浮かんだ。
「本当ですか! よかった……。では、それを受け取れますか?」
「いえ、ここにはないんです」
三浦は首を振った。
「とても大切なものだと伺っていたので、私が知っている『特別な遺失物取扱センター』に預けてあります。そこなら、絶対に安全ですから」
「特別な、センター?」
「ええ。吉祥寺駅にあるセンターです。そこの担当者を訪ねてください」
三浦は、相沢から「もし持ち主が来たら、吉祥寺へ来るように誘導してください」と指示を受けていた。
持ち主の人物像を把握し、感情を返すべきタイミングを図るためだ。
三浦は、この無害な少年なら吉祥寺へ行かせても何も危険はないだろうと、完全に油断していた。
「吉祥寺……遠いですね。でも、わかりました。親切に教えていただいて、ありがとうございます」
淳は再び深く頭を下げ、踵を返して出口へ向かおうとした。
その時だった。
三浦の持ち前の「お調子者」の性格が、余計な行動を起こさせた。
「あ、そうだ如月君」
三浦は歩き出した淳の背中に近づき、ポン、と気安くその右肩を叩いた。
「吉祥寺のセンターにはね、『鬼』がいるから。くれぐれも失礼のないようにお願いしますよ。ふふん」
三浦は、かつて自分が須藤に言われた台詞を、さも自分の手柄のように自慢げに言ってのけた。
「……え?」
肩を叩かれた瞬間。
淳の動きが、不自然にピタリと止まった。
三浦は気づいていなかった。
彼が「味見」した、あのスマートフォンの悪意。それはただの感情の残滓ではなく、元死刑囚『α』の思念だったということを。
三浦の体内には、消化しきれなかったαの因子の「残りカス」が、微量ながらこびりついていたのだ。
それが、三浦の手を通して、本来の容れ物である「空っぽの如月淳」の肉体に触れた。
乾いた導火線に、火の粉が落ちた瞬間だった。
バチィッ!!
淳の脳内で、強烈なショートが起きた。
《 淳の脳内 》
真っ白だった空間に、ドス黒いインクが一滴、ポタリと落ちた。
インクは瞬く間に広がり、蜘蛛の巣のように脳の神経回路を侵食していく。
バチバチッ……ジュウゥゥゥゥ……ッ!!――
『……ククッ。随分と待たされたが……。ようやく戻ってきたぜ、最高の「俺の体」に』
空っぽだった淳の瞳孔が、一気に収縮した。
「模範囚・如月淳」という作られた善人のプログラムが強制終了され、黒いスマートフォンに退避されていた悪魔の人格――**『α』**が、三浦からの接触をトリガーとして、完全に再起動(リブート)したのだ。
「如月君? どうしました?」
急に立ち止まった少年に、三浦が怪訝そうに声をかける。
淳は、ゆっくりと振り返った。
その顔には、先ほどまでの「礼儀正しい少年」の面影はあった。
だが、その目の奥に宿っている光は、全くの別物だった。
ねっとりと獲物を舐め回すような、傲慢で、酷薄で、愉悦に満ちた捕食者の光。
「……いえ。なんでもありません」
淳は、三浦に向かってニッコリと笑った。
「吉祥寺の『鬼』、ですか。……教えていただいて、ありがとうございます。なんだか、とても面白そうだ」
その笑顔を見た瞬間、三浦の背筋に、氷の刃を滑らせたような恐ろしい悪寒が走った。
(……な、なんだ、今の笑顔は……?)
先ほどまでの空っぽの少年ではない。
あの時、スマートフォンから立ち上っていた、悍(おぞ)ましい悪意の気配と全く同じものが、一瞬だけ少年の表情に重なって見えたのだ。
「では、失礼します。……ごちそうさまでした、シェフ」
淳は意味深な言葉を残し、自動ドアを抜けて品川の雑踏へと消えていった。
「……」
三浦は、自分が叩いた右の手のひらを、呆然と見つめた。
取り返しのつかないことをしてしまったような、嫌な汗が全身から噴き出していた。
***
品川駅のホーム。
中央線直通の電車を待つ間、如月淳――いや、その肉体を再び掌握した『如月(α)』は、自分の手を開いたり握ったりして、感覚を確かめていた。
(……やれやれ。俺がいない間、この身体の持ち主は随分と「良い子」を演じていたらしいな)
αは、自分が仕掛けた日記を読んでからの淳の行動も、少年院での生活の記憶も、全て読み取っていた。
(あの料理人のバカが、俺の「味見」をしたおかげで、残滓を通して俺の人格が呼び起こされたか。ククッ……傑作だ)
αの特殊能力『感情転移』。
他者に移した感情や人格は、通常、本体(スマートフォン)に触れなければ戻らない。
しかし、三浦が媒介(ケーブル)となってしまったことで、予期せぬ遠隔起動を果たしてしまったのだ。
(さて、俺の「本体」は吉祥寺にあるんだったな)
αは舌なめずりをした。
まだ、自分のほとんど全ての感情(愉悦と殺意)はスマホの中にある。今の状態は、いわば「記憶と人格、そして微量の悪意だけが先行して戻った」不完全な状態だ。
(……吉祥寺の『鬼』、ね。いいぜ。どこの誰だか知らねえが、俺の邪魔をするなら、俺の「殺意」を取り戻してから、じっくりと壊してやる)
春の強い風が、ホームに滑り込んできた電車の音をかき消す。
完璧な善人の顔をした怪物は、自分の全てを取り戻すため、吉祥寺へと向かう電車に乗り込んだ。
連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
(第6話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
