【プロローグ】座標の断片
は?ファンタジーだろ?
いや、無理がある 「北北西へ1.5キロ」「正午の音」 これ測量レベルで正確すぎる
スレッドは、ここから急速に伸び始めた。
最初はただの違和感だった。
描写がやけに具体的だ、という程度の。
だが、その「具体性」は、やがて一点に収束する。
――これは、作られた地形ではない。
誰かが、現実をなぞって書いている。
あるいは。 現実そのものを、書いている。
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【第1部:静寂の聖域】
『月刊ミステリ』 202X年9月号 【巻頭特集】神隠しの2年間が、この傑作を育てた。
■ 編集部リード (文・編集部 江崎 修)
ミステリ作家・水上悟(みずかみ・さとる)。
その名が書店から消えて、すでに2年が経つ。
「書けなくなったのではないか」「いや、失踪したらしい」
ネット上では様々な憶測が飛び交ったが、答えはここにある。
彼は沈黙していたのではない。潜っていたのだ。
前作の発表後、さらなる高みを目指した水上氏は、私にこう告げた。
「誰にも邪魔されない場所で、物語だけに没頭したい」と。
担当編集である私の責務は、作家の望む環境を完璧に整えることにある。
私は彼のために、人里離れた山奥に、携帯電話の電波さえ届かない『執筆のためだけの別荘』を用意した。
そこで行われたのは、俗世のノイズを一切遮断し、物語という結晶を取り出すための純粋な抽出作業。すなわち『カンヅメ』である。食事から身の回りの世話まで、生活のすべてを私が管理・代行することで、彼は『書くこと』以外の機能を捨て、作家として純化されたと言っていいだろう。
そうして産み落とされたのが、本号一挙掲載の中編『緑柱石(ベリル)の谷』だ。
本作はファンタジーの形式をとりながら、『そこにいるかのような』圧倒的な実在感を放っている。
これこそが、彼が2年間の孤独と引き換えに手に入れた境地なのだ。
鬼才・水上悟と、編集者・江崎修。
二人の濃密な時間の共有から生まれた、混じりっけなしの最高傑作を、とくとご堪能いただきたい。
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【第2部:緑柱石(ベリル)の谷】
(『月刊ミステリ』掲載 短編小説)
緑柱石(ベリル)の谷
著:水上 悟
霧の結界に閉ざされたこの谷において、私は「頌歌(しょうか)」という役割を与えられていた。
私が住まうのは、谷底の少し高台にある石造りの塔だ。
入り口は塞がれ、外部へ通じるのは高い位置にある格子窓のみ。
毎日、定刻になると「空の番人」が、籠に入った食料と羊皮紙をロープで下ろしてくる。
私はそこで、世界の美しさを讃える詩を書き、番人に献上することで生かされていた。
だが、私は知ってしまった。
この霧の向こうには、かつて人々が暮らした「王都」があり、そこには自由という名の光が溢れていることを。
私は脱出を決意した。
手元にあるのは、古びた方位磁石と、自ら書き記した一枚の地図だけだ。
塔の窓からロープを伝い、湿った苔の匂いがする地面へと降り立つ。
時刻は午前10時。
霧が薄くなるこの刻限を逃してはならない。
私は方位磁石を水平に保ち、針が「北北西」を指すのを確認した。
最初の目印までは、大人の足で約20分。距離にして1.5キロメートルの登り坂だ。
私は腐葉土に足を取られながら、雑木林の斜面を一直線によじ登る。
息が上がる。
足がもつれる。
塔の中での生活がいかに私の肉体を弱らせていたかを痛感する。
やがて、木々の隙間から、その異様な岩山が姿を現した。
『双頭の鷲(わし)』である。
灰色の空に向かって、錆びついた骨格を剥き出しにしたような、巨大な二羽の鷲。
それは、岩というよりも、かつての文明が遺した鉄の骸(むくろ)のようにも見えた。
二つの鷲の間には、無機質な線が空を切り裂くように伸びている。
私はその足元を潜り抜けた。
塔の中で立てた予測通りであれば、この下には獣道が続いているはずだ。
正午になった。
その瞬間、地底から「ドーン……ドーン……」という重苦しい響きが伝わってきた。
『巨人の槌音(つちおと)』だ。
この谷の地下には、怒れる巨人が封印されているという伝説がある。
彼は毎日、太陽が最も高い位置に来ると、地殻を叩いてその存在を主張するのだ。
私は古い懐中時計を確認し、その音が正確に12時00分に鳴り響いたことに安堵した。
私の位置は正しい。この音源は、私の現在地から見て西の谷向こうにある。
私は歩みを早めた。
ここからが最大の難所だ。
進路をわずかに東へ逸らすと、木々の緑が途絶え、視界が開けた場所に出る。
だが、そこは死の世界だ。
眼下に、『エメラルドの毒沼』が広がっている。
水を湛えたその湖面は、世にも美しい青緑色(エメラルドグリーン)に輝いているが、生き物の気配は皆無だ。
立ち枯れた白い木々が、墓標のように岸辺を取り囲んでいる。
伝説によれば、毒竜の涙が溜まった場所だという。
あの水に触れれば、皮膚は焼け、骨まで溶かされる。
私は息を止め、その美しい地獄を見下ろす崖の縁(へり)を、慎重に伝い歩いた。
地図上の等高線が密になっているこの区間さえ抜ければ、あとは峠への一本道だ。
日は傾き、森の影が長く伸びてくる。
空腹と疲労で意識が朦朧としてきた。
背後から「番人」の追手が迫ってくる幻聴が聞こえる。
戻れば、温かいスープと柔らかいベッドがある。
だが、私は足を止めなかった。
最後の急斜面を、四つん這いになってよじ登る。
爪の中に泥が入り込み、指先から血が滲む。
そして、ついにその瞬間は訪れた。
視界が、爆発するように開けた。
私は峠の頂(いただき)に立っていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
私は震える膝を抱えながら、眼下に広がる世界を見た。
そこには、『王都の灯り』があった。
谷底の闇とは違う、無数の、温かい光の粒。
人家の窓から漏れる暖かな橙(だいだい)色の光。
街道を行き交う馬車の列が作る白い光の帯。
それらが海のように広がり、夜空の星よりも眩しく輝いている。
あそこには、人がいる。生活がある。
私の声を、言葉を、受け止めてくれる誰かがいる。
「……着いた」
乾いた唇から、言葉がこぼれ落ちた。
私は方位磁石をポケットにしまい、光の海へと続く緩やかな坂道を、ゆっくりと下り始めた。
物語はここで終わるが、私の人生は、ここから始まるのだ。
(了)
(【第3・4部】へつづく)

