紀元前18世紀、メソポタミア。
熱砂の風が吹き抜けるバビロンの王宮で、若き王ハンムラビは玉座から動かず、足元に積まれた無数の粘土板を冷徹な目で見下ろしていた。
そこには、人間たちの果てしない争いと略奪、報復の連鎖が刻まれている。強者は弱者から奪い、怒りは際限なく膨れ上がり、国は内側から腐りかけていた。この混沌とした世界には「基準」がない。暴力という名の無秩序がすべてを支配していた。
「――酷い有様だな、人間の王よ。どうだ、我と契約する気になったか?」
不意に、影が意志を持ったように揺らぎ、豪奢な装飾品を身にまとった巨躯の魔神が姿を現した。
地獄の四天王が一角、「強欲のバアル」。
彼はこの数ヶ月、夜な夜な王の前に現れては甘い言葉を囁いていた。
「我は世界の因果を書き換える力を持つ。3つの願いを叶えよう。無限の富か、他国を滅ぼす無敵の軍隊か。何でも叶えてやる。代償は一つ、貴様の『魂』だけだ。3つの願いを使い切った瞬間、貴様の意識はこの肉体から切り離され、我の腹の中に収まる。至って公平な取引だろう?」
バアルは下卑た笑いを浮かべた。これまで何百人もの王が、この甘い毒牙にかかってきた。皆、自らの欲望を制御できず、短絡的な願いを口にしては自滅していったのだ。
しかし、ハンムラビ王は表情一つ変えなかった。
「よかろう。悪魔よ、契約を結ぼう」
バアルの目が喜悦に歪む。
「賢明な判断だ。さあ、第1の願いを言え!」
王はゆっくりと立ち上がり、毅然とした声で空間に響かせた。
「第1の願い。この世界に、新たな因果律の絶対法則を定義せよ。すなわち、『他者への危害、損失、苦痛の付与は、必ずそれと同等の結果を己に引き起こす』という物理法則だ。目には目を、歯には歯を。奪った者は奪われ、傷つけた者は傷つく。この因果のシステムを世界に組み込め」
バアルは一瞬きょとんとし、やがて腹を抱えて笑い出した。
「くくっ……ははは! なんだそれは。自国の治安維持を魔法で構築しようというのか? なんと怠惰で強欲な願いだ。いいだろう、たやすいことだ!」
バアルが指を鳴らすと、世界に目に見えない強固な軛が掛けられた。バビロン全土、いや世界中で、他者の財産を不当に奪った者は必ず同等の財産を失うという、見えざる因果が働き始めたのだ。
「叶えてやったぞ。さあ、第2の願いだ」
ハンムラビは間髪入れずに告げた。
「第2の願い。今構築した『等価の法則』を、全次元の存在に適用せよ。人間のみならず、精霊、神、そして悪魔であろうと。この世界に干渉する一切の存在に例外なく適用される絶対の法とせよ」
「……用心深いことだ」
バアルは鼻で笑った。
「他の悪魔や呪いから国を守りたいのだな。いいだろう、我の権能でその法則を全次元に拡張してやる。これでお前の国は、人間からも魔物からも手出しできない完璧な不可侵領域となったわけだ」
バアルは再び指を鳴らした。この瞬間、ハンムラビが定義した法則は、世界のソースコードの最深部に絶対のルールとして刻み込まれた。
「さあ、王よ。貴様は完璧な法と平和を手に入れた! これで思い残すことはあるまい。最後の願いを言え。そして、その魂を我に寄越すのだ!」
バアルの目が血走り、巨大な鉤爪が王の頭上に迫る。
ハンムラビは、迫り来る死の恐怖を前にしても、冷たい微笑を崩さなかった。
「約束通り、私の魂はくれてやる。……第3の願いだ」
王の言葉に、バアルは耳を澄ませる。
「私の魂を地獄へ引き摺り込み――お前がなし得る最大の苦痛を、私に永遠に与え続けよ」
「…………は?」
バアルの鉤爪が、王の鼻先数ミリでピタリと止まった。
「何を狂ったか、人間。自ら地獄の業火を望むとは。いいだろう、貴様の魂を我が胎内で永遠にすり潰し、発狂すら許されぬほどの――」
言葉を紡ぐバアルの脳髄の中で、悪魔の天才的な論理演算が、突如としてレッドゾーンを振り切った。
(待て。なんだ、これは)
バアルは自らの思考プロセスを再確認する。
第3の願いに従い、ハンムラビの魂に「永遠の最大の苦痛」を与える。
しかし第1の願いにより、この世界には「他者に苦痛を与えた者は、同等の苦痛を己に受ける」という絶対的な因果律が存在している。
さらに第2の願いにより、この因果律は「悪魔」にも例外なく適用される。
すなわち、私がハンムラビに永遠の最大の苦痛を与えた瞬間――私自身もまた、永遠の最大の苦痛を受け続けることになる。
「な、貴様……っ!!」
バアルの巨体がガタガタと震え始めた。
願いを叶えれば、己自身が無限の苦痛のループに囚われる。
ならば願いを放棄するか? いや、それは不可能だ。悪魔の契約は絶対である。「3つの願いを叶えなければ魂は奪えない」という大前提に反すれば、地獄のシステムそのものがバアルを契約不履行の罪で消滅させる。
叶えれば永遠の苦痛。叶えなければ存在の消滅。
「完璧な利益相反だ」
玉座のハンムラビが、静かに宣告した。
「お前はもはや、私に指一本触れることはできない。お前自身の命脈を維持するためにな」
「おのれ……おのれぇぇぇぇっ! 矮小な人間風情が、このバアルを謀ったかぁぁっ!!」
怒り狂うバアルの絶叫が王宮を震わせる。しかし、振り下ろそうとしたその腕は見えざる鎖に縛られたように硬直していた。自分が創り上げた因果の法が、自分自身をがんじがらめに縛り付けているのだ。
論理の罠に落ち、身動き一つ取れなくなった悪魔は、やがてその姿を世界に溶かすように薄れさせていく。彼の強大な魔力は、自らが敷いた等価の法を維持するための単なるエネルギー源として、世界に完全に固定化された。
***
――歴史家たちは後年、首を傾げることになる。
紀元前18世紀の古代バビロニアにおいて、なぜ突如として「目には目を、歯には歯を」で知られる極めて高度な「法と契約の概念」が確立したのか。そしてなぜ、それまで暴力が支配していた人類が、見えざる「信用」を基盤にした高度な文明を突然築き上げることができたのか。
その裏には、世界のシステムを支える人柱となった悪魔の、莫大な残骸があったのだ。
***
深い、深い暗黒の底。
地獄の最下層で、3つの巨大な影が蠢いていた。
『……バアルの魔力反応が消失した』
『呆れたものだ。人間の定めた「法」という言葉遊びの罠に自ら首を突っ込むとは。我ら四天王の面汚しよ』
影の一つが、嘲笑うように揺れる。
『奴は我らの中でも最弱。強欲ゆえに、論理の底を見る目を持たなかったのだ。……次はこの私、傲慢のルシフェルが出向こう』
その声は、冷たい知性に満ちていた。
『法の抜け穴など、私の思考の前には赤子も同然。次なる時代に現れる天才とやらを、完全なる論理の迷宮に沈めてやろう』
***
(第2話へつづく)

