「……死刑を執行する」
数年前。東京拘置所の冷たい地下室。
重苦しい鉄の扉の向こう、湿気を吸って青白く光るコンクリートの廊下を、一人の死刑囚が歩かされていた。
二人の刑務官に両脇をがっちりと抱えられ、引きずるようにして進む絞首台への道。
床に響く足音はあまりにも鈍く、室内を支配する空気はひたすらに重い。
男は世間を震撼させた連続快楽殺人犯だった。
その犯行には金銭の困窮も、積年の怨恨も、一切の社会的動機が存在しなかった。
彼を突き動かしていたのはただ一つ。
「他人の人生を理不尽に破壊し、その絶望に歪む顔を特等席で眺める」という、底なしの愉悦。
それだけだった。
普通であれば、この期に及べば誰もが死への恐怖に震え、命乞いをするか、絶望に涙を流す。
しかし、男の顔にその兆候は微塵もなかった。
それどころか、血の気の失せた青白い唇の端は、不気味なほど吊り上がっていた。
男には、国家も警察も、科学ですら証明できない絶対的な秘密があった。
他人の感情を濁った色や歪んだ形として視認し、さらに自分や他人の感情・記憶、そして「人格」そのものを物質へと移動させる特殊能力――『感情転移』である。
(……哀れな、無知なバカどもめ。俺の肉体の首をへし折って、それで正義を執行した気になっているのか。俺の魂はこれっぽっちも死にやしねえよ)
男は、逮捕される寸前の狂乱のなか、あらかじめ警察の目を盗んで細工しておいた自身の所持品 ――『古い黒いスマートフォン』に、己のすべてを注ぎ込んでいた。
冷徹な知性、歪んだ人格、そして犠牲者たちから吸い上げた「愉悦と無差別の殺意」という濃厚な感情。それらを一滴残らず、電子の檻へと全転移させておいたのだ。
ガタンッ!
無慈悲な金属音が地下室に鳴り響き、踏み板が外れた。
ロープが軋み、ただの「空っぽの抜け殻」となっていた男の肉体は、物理的な死を迎えた。だが、国家が正義の名の下に処刑したのは、魂のないただの人形に過ぎない。
本物の悪意『通称:α アルファ』は、証拠品として薄暗い倉庫の片隅に収められた黒いスマートフォンの中に密かに潜み、次なる「若くて優秀な肉体(ターゲット)」が目の前に現れるのを、じっと暗闇の中で待ち続けていたのだ。
***
それから少しの月日が流れた。
如月淳、12歳。
誰もが羨むような裕福な家庭に生まれ、何不自由なく、両親からの溢れるほどの愛情を受けて育った彼は、優しく、少し臆病で穏やかな少年だった。
だが、彼は物心ついた頃から、誰にも、最愛の両親にさえ打ち明けられない壮絶な苦しみを抱えていた。
「……うぅ、頭が、割れそうだ……」
ある休日の駅前。
淳は激しい頭痛に襲われ、その場にうずくまった。
耳を塞ぎ、目を固く閉ざしても――脳内に容赦なく流れ込んでくる奔流があった。
行き交う人々が心の中に隠し持っている、他人のイライラ、底暗い悲しみ、嫉妬、そしてドス黒い怒り。それらが、淳の目には明確な濁った「色」とトゲトゲとした不気味な「形」として見えてしまうのだ。
さらにそれは単なる視覚情報に留まらず、皮膚をじりじりと焼くような、あるいは心臓を針で突き刺すような、鋭い『触覚』を伴って彼の脳を直接蹂躙した。
吉祥寺の遺失物取扱所の管理者・相沢と全く同じ、『感情の共感覚』という名の呪い。
純粋で感受性が強すぎた淳にとって、大人が笑顔の裏に隠し持つ嘘や悪意にまみれた世界は、あまりにもノイズに溢れ、残酷すぎた。
さらに、淳にはもう一つ、自分自身でも制御できない、そしてその存在すら自覚していない恐ろしい力が眠っていた。
それは、ある冬の日のことだった。
どんよりとした灰色の雲が垂れ込め、静かに雪が降り積もる公園の裏手。
淳は、寒さに震えながら歩いている途中で、不快な笑い声を聞いた。
見ると、近所の体格の良い悪ガキ数人が、冷たい地面に置かれたダンボールを囲んでいた。
中には、まだ生まれて間もない、震える捨て犬の子犬がいた。
悪ガキたちは、その小さな命に向けて、ヘラヘラと笑いながら容赦なく石を投げつけていたのだ。
石が当たるたび、子犬は「キャン、キャン」と悲痛な悲鳴を上げ、逃げ場のないダンボールの隅で丸くなっていた。
「や、やめろ……やめるんだッ!」
淳の心の中で、何かが弾けた。
彼は子犬を庇うように、悪ガキたちの前に飛び出した。
恐怖で足は震えていたが、それ以上に、弱いものを無抵抗に傷つける彼らへの激しい怒りが勝っていた。
淳は咄嗟に、足元に積もっていた白い雪を素手で掴み、必死に握りしめて雪玉を作った。
―― その瞬間だった。
淳の胸の奥底から湧き上がった「弱いものを虐めるなんて絶対に許せない」という強烈な怒りと、「この小さな子犬を、僕が何としても守らなければならない」という悲痛なまでの願いが、無意識のうちに彼の手の中にある雪玉へと流れ込んだ。
淳の感情の、あまりにも重すぎる「質量」を吸い込んだ雪玉は、手のひらの中でみるみる変質していった。柔らかかったはずの雪の結晶が異常な密度で圧縮され、周囲の空気を歪ませるほどの、禍々しい黒いオーラを纏い始めたのだ。淳は、ただ夢中でその雪玉を投げつけた。
―― ドゴォォォンッ!!
公園の静寂を切り裂いたのは、雪を投げたときには決して鳴るはずのない、爆発のような凄まじい衝撃音だった。
「ぎゃあああああッ!?」
放たれた黒い塊は、先頭で笑っていた悪ガキの顔面に寸分の狂いもなく直撃した。直撃した瞬間、「ゴッ!」という重々しい衝撃音と共に、鼻の骨を激しくへし折る鈍い音が響き渡った。
それはもう、ただの雪玉ではなかった。
淳の行き場のない感情が限界まで圧縮され、定着したそれは、物理的な強度を極限まで高められた、文字通り「鉄球」と同等の破壊力を持つ凶器へと変貌していたのだ。
悪ガキは顔面から大量の鮮血を流し、あまりの激痛に悲鳴を上げながら雪の上に崩れ落ち、のたうち回っていた。白かった雪が一瞬で赤く染まっていく。それを見た取り巻きの少年たちは、あまりの恐怖に悲鳴を上げ、腰を抜かしながらパニックになって逃げ惑った。
静まり返った公園の裏手で、淳は呆然と立ち尽くしていた。自分の両手を見つめ、ガタガタと全身の震えが止まらなかった。
(……僕が、やったの? なんで……? ただの、柔らかくて冷たい雪だったのに……)
彼は自分の特殊能力――『物質の超強化・凶器化』の正体に気づいていなかった。ただ、目の前の光景が、自分の手によって引き起こされたという厳然たる事実だけが、彼の心を鋭く抉った。
(僕は、他人の嫌な心を覗き見するだけじゃない。触れたものを凶器に変えて、人を大怪我させてしまうバケモノなんだ)
あまりの恐怖に、淳は息がうまくできなかった。助けようとしたはずの子犬すら、淳の身体から立ち上る異様な破壊の気配に怯え、引きずった足で「キャンキャン」と悲痛に鳴きながら、彼から遠ざかるように逃げていってしまった。差し伸べた淳の手は、誰にも届かなかった。
(僕は……バケモノだ。この力があったら、いつか、僕の大好きなお父さんとお母さんまで、僕のせいで傷つけてしまうかもしれない……!)
自分の存在そのものが、周囲を傷つける呪いのように思えた。
胸を突き刺すような深い絶望と、激しい自己嫌悪。
12歳の心にはあまりにも重すぎる業を背負わされた少年は、誰にも助けを求めることができず、ただ一人で雪の降り積もる暗い街の中へと逃げ出していくしかなかった。
彼の残した小さな足跡は、静かに降る雪によって、すぐに覆い隠されていった。
連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
(第4話へつづく)Coming soon…。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。