2026.11.28 品川
「……ノン(Non)。ソースの粘度が強すぎる」
品川駅高輪口からほど近い、超高層ビルの最上階。
予約三ヶ月待ちの高級フレンチレストラン『Le Miroir(ル・ミロワール)』の厨房に、冷徹な声が響いた。
声の主は、この店の総料理長(シェフ・ド・キュイジーヌ)、三浦省吾(みうら・しょうご)。
身長185センチの長身痩躯。
研ぎ澄まされた柳刃包丁のような鋭い雰囲気を持つ、35歳の男だ。
完璧に糊の効いたコックコートに身を包み、銀縁眼鏡の奥から、冷ややかな視線を部下に投げかけている。
「申し訳ありません、シェフ! すぐに作り直します!」
「構わん。私がやる」
三浦は流れるような所作で鍋を奪うと、フォンドヴォーに僅かな赤ワインとバターを加え、一瞬で「完璧なソース」へと昇華させた。
味見はしない。香りと色だけで、分子レベルの味の構成が理解できるからだ。
(……完璧だ。だが、つまらない)
三浦は心の中で静かに呟いた。
彼の料理は完璧だ。批評家も客も絶賛する。
だが、彼自身の「舌」は、もう何年も満たされていなかった。
この世の食材は、どれもこれも味が薄い。
フォアグラも、トリュフも、キャビアも。
彼が求めているのは、もっと魂を震わせるような、濃厚で、危険な「刺激」だった。
***
深夜23時。
ラストオーダーが終わり、客足が途絶えたダイニング。
夜景の彼方に東京タワーが赤く輝いている。
「シェフ。4番テーブルのお客様のお忘れ物です」
ギャルソンが、一枚のハンカチを銀のトレイに載せて持ってきた。
上質なシルクのハンカチだ。
淡いラベンダー色で、微かに香水の匂いが残っている。
「……あそこの席は、訳ありのカップルだったな」
三浦は眼鏡の位置を直しながら、そのハンカチを見下ろした。
ギャルソンには見えていないだろう。
だが、三浦の**『視覚』**には、ハッキリと映っていた。
そのハンカチには、べっとりと**「紫色のゼリー状の物体」**が付着していた。
それは、まるで熟した葡萄の果肉のように艶やかで、照明を反射して妖しく揺らめいている。
一般人の目には何の変哲もない、ただの綺麗なハンカチだ。
だが、三浦にはそれが、この世のどんな宝石よりも美しく、何より――美味しそうに見えた。
「……貸してくれ。私がオーナー室で保管しておく」
「えっ、しかしシェフが直々に……?」
「いいから」
三浦はトレイごとハンカチを受け取ると、足早に自分のオフィスへと向かった。
ドアを閉め、鍵をかける。
静寂。
三浦はデスクランプの下で、その「紫色のゼリー」を凝視した。
(……間違いない。これは『感情』だ)
4番テーブルの女性客。
彼女は食事中、笑顔を浮かべながらも、同伴の男性のスマホの通知を、ずっと鋭い目つきで追っていた。
疑心。不安。独占欲。
それらが煮詰まり、凝縮され、彼女が席を立つ際、無意識に握りしめたハンカチに「絞り出された」のだ。
「……ふぅ」
三浦の喉が鳴った。
抗いがたい食欲が、胃の腑から突き上げてくる。
彼は震える指でハンカチをつまみ上げると、その紫色の物体に、恐る恐る舌を近づけた。
(毒かもしれない。……いや、毒で構わない)
ペロリ。
舌先が、ゼリーに触れた瞬間。
「――ッ!?」
三浦の脳髄を、稲妻のような衝撃が貫いた。
甘い。
腐りかけた果実のような、背徳的な甘美さ。
その直後に広がる、舌が痺れるほどの強烈な酸味と、喉を焼くような苦味。
「……くっ、ふふ……っ!」
三浦は夢中で、ハンカチに付着したそれを舐め取った。
粘膜から直接、他人の人生が流れ込んでくる。
彼女の悲しみ。怒り。そして、相手を自分だけのものにしたいという、煮えたぎるような愛着。
(これは……『嫉妬(ジェラシー)』のジュレだ……!)
全ての感情を飲み干した時。
三浦の体内で、爆発的な化学反応が起きた。
連日の激務による疲労が、一瞬で吹き飛んだ。
視界がクリアになり、指先の感覚が極限まで研ぎ澄まされ、全身の筋肉がバネのように躍動する。
「……あぁ、力が……みなぎる……!」
三浦は恍惚とした表情で、天井を見上げた。
鏡に映った自分の顔は、頬が紅潮し、瞳はかつてないほどギラギラと輝いていた。
それはもはや、人間の顔ではない。
獲物を狙う「捕食者(プレデター)」の顔だった。
「これだ……。私が求めていた『究極の食材』は……!」
三浦は、すっかり『空っぽ』になったハンカチを丁寧に折りたたんだ。
彼の唇には、艶めかしい笑みが張り付いている。
この店『Le Miroir』は、明日からメニューが変わるだろう。
皿の上に載るのは料理だけではない。
客たちが無防備にさらけ出し、置き忘れていく、極上の「感情」たち。
「さあ、仕込みの時間だ」
品川の夜景を見下ろす魔王の城で、悪魔の晩餐会(ディナー)が始まろうとしていた。
(第2話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
